切腹考

切腹考

2021年7月24日

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「切腹考」伊藤比呂美 文藝春秋

 

私は、グロはダメである。血が出るのも、肉が切れるのも、できれば一切見たくない。人がバッサリ斬り殺されるリアリズムに富んだ映画なんか見た日には、絶対、夢見が悪くて夜中にうなされるハメになる。活字媒体でも、痛そうな描写はできるだけ心を薄っぺらにして、薄目を開けて、さささーっと読み飛ばすことにしている。
 
ところが、この本は始まって割とすぐに、人が切腹するのである。切腹マニアが、常に鍛錬しております、鍛錬しさえすればどうということもない、などと言いながら腹を切っちゃうのである。
 
私は電車で本を読んでいた。そうしたら、腹を切られてしまったので、「うぐぐ!!」と声が出そうになった。いや題名から予想はついただろうが、と自分にツッコミを入れるしかなかった。ひと目があるから発声をこらえたら、涙が出そうにはなった。それなら読みやめればいいのに、やめられないのが伊藤比呂美の罪な文章である。
 
話は切腹から始まって、森鴎外に飛び、英国のまずいまずいマーマイトの話になり、また鴎外に戻ったかと思うと元夫の話になり、熊本で地震が起こり、かと思うと現夫が倒れ、老化し、死んでいく。もう、あちこちへ飛ぶのであるが、どうしても読みやめられない。読みながら、これはエッセイというか散文というかではあるけれど、実は詩だよなあ、伊藤比呂美はどこまで行っても詩人だよなあ、とつくづく思う。すると、おお、その後にご自分でも書いておられる。
 
 この頃は詩を書くつもりでなんでも書くのである。ちゃんとした詩をかけと言われると、伊藤くんは昂然と頭を上げて、口答えする。書いてますよ。今書いてるのが詩なんですよ、と。
 
森鴎外の文章の中に、伊藤比呂美は一人の女性を発見する。その女性はかのエリスでも何でもない。知的で我の強い女だ。それは私だ、と伊藤比呂美は言う。鴎外と同時代に出会っていたら、恋に落ちていたかもしれない、と。2009年、ドイツのウンター・デン・リンデンのそばの「森鴎外記念館」で副館長を務める女性と伊藤比呂美は、鴎外を巡って真剣勝負の立ち合いとなった。「二十五年、鴎外一筋だった、十年つづいた男はいないのに、鴎外だけはつづいた」とその副館長は奔放な日本語で言い放ったのだ・・・。
 
日本に帰らねばならない用があるというのに、夫が倒れる。老化は容赦なく進む。アメリカの医療制度は過酷だ。夫は死にたいといい、しかし、青空を見て、生きたい、という。糞尿にまみれて、二人は孤軍奮闘する。そして、ある日、夫は死骸になる。
 
章と章との脈絡はどうなっているのだ、と時として混乱するが、ぐいぐい引っ張られてしまうので長く疑問に思う暇もない。これは詩で、詩の世界はどうにでも展開していく。
 
伊藤比呂美は詩人である。そして、この本は全編詩に溢れている。彼女の書くものを、私はずっと読み続けたい、とおもう。
 
(引用は「切腹考」伊藤比呂美 より)

2017/6/8