モテたい理由

モテたい理由

2021年7月24日

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「モテたい理由」赤坂真理 講談社現代新書

「東京プリズン」で、はーこさんから教えていただいた本。はーこさん、ありがとうございました。

題名は軽薄だけど、中身は思いがけずハードというか、真面目な分析本だった。でも、古いのね。2007年だって。11年前。隔世の感がある。

生きる目的が失われ、男性の価値が失われていく中、これからは女性の時代だと言われ、女性なりの視点を求められる時、最も大事にされるのが、人から好かれ、愛されること、すなわち「モテ」である、との指摘からこの本は始まる。

 グループの中で自分がいちばん多くの異性の目を集めながら、最高の(自分の意中の)一人から(ステディあるいは結婚の)プロポーズをもらえること。(中略)
 これが女性が最も達成感を感じるゲームのストーリー、女の全能感のシナリオである。
            
ええ?そうなのか?この指摘自体がすでにちょっと古いようにも感じる。が、それって、私がオバサン化したからなのかもしれない。少なくとも若い頃の私の達成感は、そこにはなかった、ように思う。ってか、そういうことと無縁だったからだけかもしれんが。それはともかく。

私は「JJ」や「CanCan」をほぼ読んだことがないので新鮮だったのだが、これらの雑誌には劇場化された、「エビちゃん」のような可愛らしいモデルによるストーリーがあって、その中で服やバッグやメイク、ヘアアレンジなどが「提案」されるのだそうだ。その設定は

育ちの良さを暗示させる学歴
卒業後二年程度で得意の語学や魅力を活かして責任ある仕事に抜擢される
優しい彼氏がいて結婚秒読みだがすれ違い
かっこいい間男に言い寄られ、ぐらつく
本命彼氏に結婚をちらつかされるが、正式に申し込まれないまま
だが、可愛らしくして彼の申し出を待つ、あるいはついにプロポーズされる

を多少アレンジした程度で、後はたいてい同じ。なるほどねえ。

これらの源流に、作者は二谷友里恵の「愛される理由」をあげる。ああ、わかるうう、とリアルタイムであの本を読んだ私は激しくうなずいてしまう。一体何がいいたくてこれを書いたんだ?と当時の私は首をひねったもんだが、大ベストセラーになったのは、彼女、ニタニユリエが、女性の「かくありたい」という願望を体現した人だったから、らしい。「愛される」と受動態にしたところがすごい、とのちに離婚したヒロミゴーが褒めているもんね。

女性の価値というのは、努力して勝ち得るものというよりは、自然といつの間にか手に入ったものである、という指摘もされている。貧乏だった女の子が努力して認められたお話よりも、良家に育って、親に良い学校に入れられて、生まれながらの美貌と優しい性格によって、素晴らしい男性に見初められて、幸せな家庭を築くことこそが素晴らしい、とされる。なぜだか知らんが、オトコは努力して頑張って勝ち得たものに価値を見出すが、女性はそうではない、と。

作者は「なぜだか知らんが」で終えてしまっているが、そこで私は内田樹が、消費社会化による価値観の変遷という指摘をどこかでしていたな、と思い出す。賢い消費者は、少ない支払いで多くの商品を手に入れることこそを価値とする。努力は支払いであり、「生まれながら」は、既得商品であるから、何もしないのに、気がついたらこんなにいいモノをいっぱい手に入れてました、である。それこそが、消費社会では大いなる価値なのである。ほら、全然勉強してないのに、いい成績を取るほうが、ガリ勉よりももてはやされるのと一緒。女性はそこんとこ目ざといのかもしれない。

2007年当時は、そんな感じだったのかもしれないが、いまやSNS全盛期、雑誌のエビちゃんに憧れる時代は終わったんじゃないか。少なくとも私の知る主婦層は、SNSでリア充を発信し、憧れの生活を送っている(かのような)姿を他者に見せつけることに血道を上げている、様に思える。(いや、それすらも、インスタ映えとか言っている人たちは更に進んでいるのか?おばちゃんには、はかり知れないが。)憧れの生活を送っている演出は、今やエビちゃんだけのものではない。ちょっと盛ったり、生活の一部を切り取ってさもそれ風にアレンジすれば、だれでも安上がりの全能感を演出できてしまう。

でも、だからこそ、更に人々は追い詰められもする。自分が薄っぺらであることに気づいてしまうし、あるいは、みんなはこんなにすごいのに、私は・・・とごく普通の生活を送っていることを惨めに思ったりもする。いつの時代も、普通の人は、本当は普通のままだし、それこそが生活というものなのだけれどね。

なんてことを思っていると、最後の章で、いきなり作者の高校時代のアメリカ体験が語られる。作者にとっては必然性があるシメ方なのはわかるが、取ってつけた感がなくもない。が、ここでとても重大な指摘がなされている。

偶然かもしれないが、先程私が思い出した内田樹の言葉を作者はいきなり引用する。

「外国語教育がオーラル中心なのは植民地の証」と言ったのは内田樹だが、賛同する。

と。そして、自分がアメリカの学校で教師に受けた助言を紹介している。

「あなたは日本語のアクセントをなくしてはだめよ。でないと、あなたの特徴が無くなる。アメリカ人はあなたが英語を話すのも当然に思ってしまうからね。」

当時の作者は、ネイティブな英語が喋りたいと願っていたそうだが、20年経って

この価値が、今の私にはよくわかる。いまだに、これより有効な異文化アドヴァイスを私は知らない。

と語っている。これは、とても大事なことだ、と私も思う。

本当に大事なのは、どんな服を着ているか、でもどんなヘアアレンジをしているか、でも、どんなふうにしゃべるか、でもなく、どんな中身を持っていて、何をしゃべるか、である。ただ、それだけである。

                                      (引用はすべて「モテたい理由』赤坂真理より)
2018/12/14