読み解き「般若心経」

読み解き「般若心経」

89 伊藤比呂美 朝日文庫

旅のお供の本を読みつくした私は、夫の旅本に手を出した。彼が持ってきたのは、なかなかの渋い本であった。

クリスチャンホームに育った私は、お経に接するということが本当になかった。結婚して夫の実家で法事というものに参列してお坊さんが唱えたのを聞いたのが、おそらく初めてのお経との出会いである。漢字だらけの教科書のようなものにふり仮名がふってあって、それを皆が一斉に読み上げ、唱和する。音程があるような、一定のリズムがあるような。かといってそれが音楽であるとは言い切れないような、不思議な呪文。一体、何のためにそれを読み上げるのか、それにはどんな意味があるのかと義母に尋ねたら、困った顔で「お坊さんに聞いてみなさい」と言われた。でも、聞く機会がないまま来てしまった。

この本によれば、それは仏の教えであり、懺悔であり、詩でさえある。伊藤比呂美はこんな風に言う。

それはもう何語でもない。ことばですらないのかもしれない。翻訳に翻訳をかさね、人の声に声をかさねて、実体のわからなくなってしまった音。そこに、人の心、悔いる心だけが残る。

寝たきりの母と、家に残った孤独な父。日本語を書けたり話せたりができたりできなかったりする三人の子供と老いた夫をアメリカにおいて、毎月、日本に戻る伊藤比呂美。家庭と介護と看取りを背負いながら行ったり来たりする中で、彼女はお経に出会い、それを読み解いていく。詩人の翻訳する般若心経は美しい。ごく一部だけを抜粋する。

わたしが いる。 もろもろの ものが ある。
それを 感じ
それを みとめ
それについて 考え
そして みきわめることで
わたしたちは わたしたちなので ある。
しかし それは みな
「ない」のだと
はっきり わかって
一切の 苦しみや わざわいから
抜け出ることが できた。 (新訳「般若心経」より)

伊藤比呂美の母が亡くなる前の父の話が美しかった。

「死ぬ二日くらい前にね、抱きしめてやったんだ。新聞でね、妻が死んで、後悔していることは、力いっぱい抱きしめてやらなかったことだっていうのを読んで、そんならおれもやってやろうと思って、抱きしめてやったら、涙流して泣くんだもん、「この部屋にだれかいるの?」ってきくからさ、「誰もいないよ」って言ってやったら、声あげて泣くんだもん、だから、おふくろは死んじゃったけど、おれは、悔やむことは、なんにもない」

いい話だと思った。

(引用はすべて「読み解き『般若心経』」伊藤比呂美 より)

さて、これを読んでも電車旅はまだまだ続く。夫の旅本はもう一冊ある。スマホにも未読のテキストがいくつかあるし。何とかもたせよう。