身体巡礼

身体巡礼

2021年7月24日

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「身体巡礼」養老孟司 新潮社

 

壊れていく父と、その介護に疲れていく母を手助けする往復の車内でこれを読む。老いや死の現実を突きつけられた中で読むこの本は、心にしみる。
 
引退した養老先生がやろうと思っていたことは、墓参りである。自分の親族だけでなく、海外の墓を回って歩く。解剖学で死体とばかり向き合っていた先生が、死体とは何か、を考えた挙句に行き着いたのが、墓巡りである。
 
死は二人称であり、一人称の死体は存在しない。死んだ自分を見る自分は存在しないのだから、自分の死体というのは「ない」。また、二人称はなかなか死体にならない。その人だと思う限りにおいて、それはその人自身であって、死体にならない。死体がモノになるとはどういうことか。死体の人称変化に興味を持った先生は、ドイツ、オーストリア、チェコの墓場を巡ったのである。
 
頭のいい人の文章とはなんと心地よいものだろう、と思う。すっきりとした組み立て、論理的な説明、わかりやすいたとえ。こんな頭脳をもっていたら、世界は違って見えただろうと思うばかりである。
 
聖心女子大の「聖心」が「聖なる心」ではなく「聖なる心臓」だとは知らなかった。ハプスブルグ家の埋葬では、心臓だけは切り取って別容器に保管される。マリア・テレジアも、ルードヴィヒ二世も、心臓が肉体から切り取られて、別の場所に保管されている。心臓こそがその人の象徴である。ハプスブルク家という共同体は心臓埋葬によって時を越えて持続していく。
 
ユダヤ人の墓は、決して壊してはいけないのだそうだ。だから、何重にも多層に重なって墓が作られる。土壌のせいで骨は溶けない。(日本は土壌の性質によって人骨は溶けてしまう。だから、縄文時代の人骨などがほとんど出土しないのだ。)いつまでも、死体・・・というか、人骨は残っていく。国土を持たないユダヤ人にとって、それは共同体の持続を意味する。
 
日本はあっさりと火葬する。封建的な家族制度もなくなってきたから、日本共同体はまさに今生きている人たちだけの集団になった。世俗的で機会主義的である共同体の継続は、天皇制によって時間が担保されるからだ、という指摘に妙に納得してしまう。
 
カタコンベの大量の頭蓋骨の写真を見ると、頭がくらくらする。この一つ一つが、かつてはひとりひとりの人間で、それぞれがそれぞれの人生を生きてきた。その歴史の多重さを思うと気が遠くなる。いっせいに骸骨が喋りだしたら・・・と思うと、恐ろしいような、でも、非常に興味深いような、不思議な気持ちになる。できうれば、私に理解できる言語で喋っておくれ、と願ってから、何を言っているんだ、私は、と笑ってしまった。

2017/12/14