世界が土曜の夜の夢なら

2021年7月24日

34

世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」斎藤環 角川書店

美学としてのヤンキーについて語られた本である。この視点は、実はナンシー関に始まるという。

あえて断言するが、いわゆる「不良文化」とは異なる文脈で、われわれの日常に潜在する「ヤンキー性」をはじめて指摘したのはナンシー関だ。彼女は芸能界を支配する美意識の大部分がヤンキー的なものであることを身も蓋もなく指摘してしまったのだ。その指摘は、「言われてみればそうとしか思えない」というインパクトとともに、芸能界の風景を一変させた。まさに「コロンブスの卵」であり、「目からウロコ」にほかならなかった。

ナンシーは横浜銀蠅についてこう書いている。
「私はつねづね『銀蝿的なものを求める人は、どんな世の中にあろうとも必ず一定数いる』と思ってきた。そして、その一定数はかなり多いとも思う。あえて具体的数字を挙げるなら、自覚している人が一千万人、潜在的に求めているのは三千万人にのぼると推測する。なんと計四千万人、日本の総人口の三分の一が『銀蝿的なものに対してひかれがち』であるとは、何ともおどろきである。勝手に勘定してびっくりしてちゃあ世話ないが」

このあたり、書いてあったことを総ざらいしたいほどのインパクトなのだが、そんなことをするくらいならこの本を読めばいいだけなので、ここはサラッと通り過ぎよう。作者は、「日本人がキャラ性をきわめていくと必然的にヤンキー化する」と仮設する。そして、最もキャラが立っている日本人とは「坂本龍馬」である、と指摘するのだ。この指摘に私は愕然とする。なぜなら、「なんで誰もが坂本龍馬をこんなに好きになっちゃうのか」は常に私の中にある疑問の一つだったからだ。キャラがたった日本人として、作者はもうひとり、「野口英世」もあげている。このふたりに共通するのは、彼らの人生が優れてパフォーマティブに見える、という一点である。何事をなし得たか、を追求すると、実はそんなに大したことはしていないのだが、「どう生きたか」という「生き様」においては圧倒的なキャラが立っているのである。

というところまで、目からウロコ的に読んできた私は、「おお!」と立ち尽くしてしまった。その直前に「まなざし」を読みながら「結局、私は鶴見俊輔が何をしたか、はあまり知らないままに、彼がどんな人間であったか、という点だけに圧倒的に惹かれているのだなあ」という感想を強くもっている自分に気づいていたからだ。これは、まさしく「キャラが立っている」ことであり、そこに囚われた私はもはやヤンキー性の中にいるということではないか!今まで一度たりとも自分の中にヤンキー的要素を認めたことがなかった私は、実はヤンキーであったのか!!と、もう、びっくりしてしまったのである。ちなみに、鶴見俊輔は「まなざし」の中でナンシー関を取り上げて褒めていた。縁ですなあ。

作者によれば、スサノヲは日本最古のヤンキーだという。言われてみればそうだよなあ、と笑ってしまう。

ところで、作者の斎藤環は、吉野朔実の読書漫画によく登場し、いろいろな本を吉野朔実に勧めたり、感想を言い合ったりする仲間であった。吉野朔実、なぜ死んじゃったのかなあ、とずっと思いながら読んだ。本の中身には、全然関係ないけどね。

(引用は「世界が土曜の夜の夢なら」斎藤環 より)

2019/5/7