チャールズ・ホームの日本旅行記

チャールズ・ホームの日本旅行記

2021年7月24日

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「チャールズ・ホームの日本旅行記 日本美術愛好家の見た明治」

チャールズ・ホーム  彩流社

 

イザベラ・バードの日本旅行記のような、明治時代、日本を旅した外国人の手記を読むのが好きだ。明治という時代の日本は、私から見ると、自分の国というよりも、少し離れた場所、異国のような感覚もある。だからこそ、外国人の目で見るとリアリティが感じられるということなのかもしれない。
 
チャールズ・ホームは19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの美術界の重要人物で、「ステューディオ」という美術雑誌の創刊者である。西洋社会に日本美術を積極的に紹介した人物だ。その彼が1888年12月から「世界旅行」に出て、二巻の日記をしたためた。が、一巻目と、二巻目の一部は消失してしまった。残された日記は1889年3月の京都から始まり、三ヶ月半後のカナダのウィニペグまでであるが、そのうちの日本滞在部分を翻訳したのがこの本である。
 
旅の同行者には、アーサー・レイゼンビー・リバティとその妻、それに画家のアルフレッド・イーストも同行した。リバティは、リバティ商会の創設者である。リバティ夫人は多くの写真を撮影し、夫が解説を付け加えた。それも、この本の巻末にたくさん載せられている。
 
彼らは京都から横浜や東京、鎌倉、江ノ島、日光、中禅寺湖、箱根、名古屋、神戸、有馬温泉、六甲山など様々な場所を訪ねている。どこへ行ってもそれなりに西洋風のホテルがあり、西洋料理も食べられていたことがわかる。フェノロサや河鍋暁斎、大隈重信など有名人が多々登場するのも興味深い。
 
今こそ和食はヘルシーだと世界でもてはやされているが、当時の彼らにとって日本の食べ物はかなりひどい代物として受け止められていたことがわかる。刺し身なんて耐えられなかったようだし、お澄ましや味噌汁も、匂いだけでうんざりだったようだ。そんなものなのか・・・。
 
宇都宮の駅前から、五時間人力車に揺られて日光まで行ったとある。乗ってる方も大変だったろうが、引っ張る方はもっと大変だったろう。当時の日本人は筋力が強かったのだなあ。
 
ホームは、日本美術に対しても、日本の文化に対しても、そして日本人に対しても、差別的な意識を持たずに、丁寧に敬意を持って対応している。日記という私的な文の中にもそれが見て取れて、フェアな人だったのだと思う。日本をとても好きになって、離れるのを寂しいと感じる外国人がいた、ということを嬉しく思う私は、やっぱり日本人なのだなあ。

2018/5/26