みかづき

みかづき

2021年7月24日

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「みかづき」森絵都 集英社

「塾」という言葉を知ったのは、小学校三年生ころだったと思う。みんなで三角ベースをやろうと原っぱに(あの頃は、本当に土管が転がっているような原っぱが、吉祥寺周辺にもあったのだ。)集まってワイワイやっていたら、友達のひとりが、「これから塾だからもう遊べない」という。「塾って何?何を習うの?」と尋ねたら「国語、算数、理科、社会」と彼女は数え上げた。「え?学校で習ってるのに、よそへ行ってまた同じことをするの?」と私は心から驚いた。随分無駄なことをするのだなあ、とか、おかあさんが忙しくて家にいられなくて行かされているのだろうか、などと心の奥で考えたのを覚えている。

それから時は経ち、中3の時に、クラスで塾に行っていないのは私一人だと担任に言われて驚愕した。母が病気で入院中に札幌から東京に引っ越した。毎日の生活を滞りなくつづけるのがやっとで、習い事を見つけて通う手配など誰もできなかった。ずっと続けていたピアノすらそこで頓挫したのに、塾なんて発想すらなかったものだ。そうか、みんなは塾に行っているのか、とぼんやり考えたのも覚えている。

私にとって、塾とはそんなものである。実際に通ったことは、ほぼない。担任に言われて、中3で夏期講習に一週間通った、そんなもんである。だから、世の中で塾が必須となり、母親たちが塾代を稼ぐために必死にパートに出るということが、なんとなく現実としてつかめていなかった。部活で忙しい我が家の子供達は、通信教育をこなすのさえ大変だったから、このうえ塾に通うなんて考えられもしなかったしね。

が、下の子が中3のとき、これは宣伝じゃなく言うのだけれど、Z会の進学教室に数ヶ月間お世話になって、成績はぐんとアップした。そうか、塾ってすごいんだな、とそこで初めて知った。

さて、この本は、塾をめぐる大河小説である。なんだかすごく評判がいい、というだけで手に取ったので、読み始めて「え?塾?」と驚いた。題名から、切ないラブロマンスか何かだと思っていたのでね。で、最初はなんだか違和感が強く、最後まで読めるだろうかと警戒していた。が、怒涛のごとく読めちゃうのである。大河ドラマなのである。

塾というものに全く無知だった私である。描かれていたのは、未知の世界だった。塾がこんな風に教育界に大きな位置を占めていったのか、とその経過を初めて知った。それとともに、教育というものを、全く違う側面から眺められたことに新鮮な感動があった。

このところ、「大人のための社会科」「街場の天皇論」「身体巡礼」「バイトやめる学校」などを読み続けていて、それらに通底するものについて漠然と感じていたことがある。教育とか学問とか勉強ということについてである。

私には、ありていに言ってしまえば、塾とはお金で成績を買うところ、というイメージがあった。勉強って、本当は生きる力を身につけるもののためなのに、お金を出して、苦痛を耐え忍びながら我慢し続けると、それによって「学歴」とか「高収入の仕事」とか「世間の評価」とかが手に入る。つまり、勉強は、いまやある種の単なる経済活動になってしまっていて、塾とは、それを効率良くすすめるための技術を売る場所である。そんな認識が、私の中にあったことは否めない。

だが、この本からは、全く違う側面が見えた。勉強をすることは、自分で考える力を身につけること、生きる力を手に入れることである、という信念が貫かれていた。それが私には意外であった。そして、感心した。

前述した何冊かの本を読みながら私が考えていたのが、そういうことだったからである。結局のところ、どんな学校を出たとか偏差値がいくつであったかなどということは、大した意味はない。何か困難に出会った時に、何が問題なのか、どうすればそれを乗り越えられるのか、そのために自分にできることは何か、を誰かの指示に従ったり、周囲の流れに惑わされることなく、自分の頭で考え、実行し、その結果を自分で引き受ける。そういう力が身についているかどうかこそが重要であり、勉強をするということの意味はそこにあるのだ。そのために、広い知識や先人たちの失敗や成功、様々な思考の積み重ね方や物事をうまく運ぶための技術を学ぶ。そして、それは生きる力となる。それこそが勉強というものだ、そしてそれは誰にでも必要なものだ、とずっと考えていた。

その続きに、この本があったので、塾の大河を泳ぎながら、ここ何冊かの読書の集大成をしたような感慨があった。まあ、タイミングがそうだった、ということなのかもしれないけれどね。

2017/12/26