街場の天皇論

街場の天皇論

2021年7月24日

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「街場の天皇論」内田樹 東洋経済新報社

養老孟司先生を始め幾人かの著書を読むと、頭のいい人の書く文章を読むことの心地よさに感動する。内田センセイの本もそのひとつで、明晰な論理に舌を巻く。わかり易い言葉で難しいことをいつの間にか見事に説明しているのである。

天皇を語ることには多くの禁忌があった。今もあるのだろうけれど、過去に比べると、随分とそれは軽くなったものだと思う。かつては、公に天皇を語ることは、命にかかわることでさえあったからね。大げさではなく。

天皇制に対してずっと批判的な思いのあった内田センセイが、年をとるに連れて思いを変えていった話は、身につまされるものがあった。若い頃は、今、ここにあるもの、今現在が豊かで心地よいものであることしか志向しない、というか、それが精一杯であった。ところが、年配の師や先輩、そして同輩や信頼できる友が死んでいくに連れ、死んだ人たちのことを人は考えるのである。あの人達が大事にしていたこの世というものを思うし、彼らに恥じない自分でありたいとも思うし、彼らが望んだものを大事にしたいとも思う。とともに、自分が死んだ後の子どもたち、若い人たちの未来というものにもある種の責任というか、願いのようなものを強く抱くようになる。

そういった縦方向の時系列に対して、天皇制という脈々と続くひとつの制度がある種の役割を果たしている、ということが、なんだか腑に落ちるのである。その時々の政治的権力者が戦い合い、騙し合い、殺し合い、否定し、転覆し、変わっていったとしても、それとはまた別の場所で一つの系統がずっと静かに続いていくことが、人びとのある種の心の支えとなるという意味合いが、やけに胸に響くのである。(それは、今の天皇のキャラクターによるところも大いにあるのかもしれない、という疑念もありつつ、ではあるが。)

国家は企業ではない、と内田センセイは言われる。企業は、業績が悪化し、発展が途絶えても、倒産すればよろしい。が、国は、国民をどこまでも守り続けなければならない。そこに求められるのは経済効率でもないし、利益追求でもない。そんなアタリマエのことを、今のトップのあの考えの足りない人は気がついていないのである。そして、彼は、この国を思い通りに動かすための方便として天皇制を捉えている。その指摘は極めて正しい。

2017/12/23