折口信夫の青春

折口信夫の青春

2021年7月24日

「折口信夫の青春」 富岡多恵子 安藤礼二 ぷねうま舎

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折口信夫をどれだけ読んだことがあるかと問われれば、殆どない、としか答えようがない。日本文学史の学習の中でほんのちょっと「釈迢空」として触れただけだ。そんな私がなぜ折口信夫の青春に興味をもったかというと、じつに下世話なことであって、彼が同性愛者であったという事実に突き当たったからに過ぎない。人間にとってセクシュアリティというのは重要な部分を占めるのであって、それを無視してはその人を語ることはできない・・・などともっともらしく言ったところで、いえいえ、ただ単に下世話な興味でして、というのが正しい言い方なのだろうと我ながら思う。

折口信夫はじつに多面性のある人である。大学の先生であり、民俗学者であり、歌人であり、詩人であり、小説家であり。柳田國男の弟子としても知られている。生真面目で、人と合わせることを知らず、まっすぐに自分を見つめながら生きた人、という印象がある。

それにしてもこの本は驚きの連続であった。折口信夫が家庭的に恵まれない人であったこと、そこには宗教が大きく絡んでいたこと。まさか景教(異端派キリスト教)まで絡んでくるとは思わなかった。それから、彼と沖縄との関係性も面白かった。飛行機もなかった当時の沖縄は、今よりもずっと遠い場所だっただろう。沖縄における柳田國男と折口信夫の研究姿勢の違いも興味深いものがあった。

また、この本を通じて本荘幽蘭という女性を知ったことも収穫であった。こんな面白い女性がその時代に生きていたなんて、私は知らなかった。彼女についてはこれから読んでいこうと思う。

著者二人が、それぞれに違った側面から折口信夫を研究し、それを互いに持ち寄って、まるでパズルのピースを嵌めこむように全体像を造り上げていくという構成も面白かった。富岡多恵子の、内部にいるものは全体が見えない、という指摘も興味深かった。詩壇から離れて初めて現代詩が見えてくる、というのは彼女の実感であろう。同じように、折口信夫研究の内部にいる者には、折口信夫は見えてこないのだ。

2014/1/13