探検家、36歳の憂鬱

探検家、36歳の憂鬱

2021年7月24日

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「探検家、36歳の憂鬱」 角幡唯介 文藝春秋

「空白の五マイル」や「雪男は向こうからやって来た」の角幡さんのエッセイ集。題名からもわかるように、けっこう自己否定的、ネガティブな内容が多いが、それがまた面白い。何しろ、最初の章では、自分が徹底的にモテないことを嘆くところから始まるのである。顔写真を見る限り、なかなかのイケメンだし、探検に命をかけるなんて男のロマンだし、女の子、コロツと行っちゃいそうだけどなあ。でも、考えてみたら、すぐに連絡の取れない世界の果てまで行っちゃって、しかも無事帰ってくるかどうかもわからなければ、安定した収入なんて望むべくもなく、一ヶ月お風呂にも入らないで泥だらけで得体のしれない峡谷を進んだりするような男、やっぱり駄目かも。

探検というのは、そんなにかっこいいもんでもなければ、ロマンチックなものでもないことが、この本では堂々と暴露されてしまっている。

意外かもしれないが、冒険の現場とは通常、冒険をしない人が考えるほどスリリングではない。冒険の最中は単調で退屈な時間が続くことが多く、それは人間のいない自然を相手に行う冒険の場合はことのほか顕著だ。風景も代わり映えのしない、同じような場面が続く。つまり冒険の現場というのは概ね退屈で、冒険に行くだけでは面白い文章が書けないことが多いのである、それは今回のような北極を歩くという行為を想像してもらうと分かりやすいだろう。スキーでとぼとぼ氷の上を歩いているところを文章にしたところで、面白いことなんて何もないのだ。
雪の上を歩いた。寒かった。飯を食った。寝た。

ああ、そうだろうなあ、と思う。角幡さんの先輩である高野秀行さんあたりになると、その退屈さえもネタにしてしまって、ぐちぐちとボヤくのが芸になってしまっているが。

退屈だと言いながら、角幡さんはその一方で、何度も死の危険に直面している。そして、危ない目に合えば合うほど、また同じようにギリギリの局面に立ちたいと思う自分に気がついている。

結局のところ冒険を魅力的にしているのは死の危険なのだ。死の危険が隣にあるからこそ、冒険や登山という行為の中には、人生の意義とは何なのかという謎に対する答えが含まれているように思える。ツアンポー峡谷や北極圏の氷原みたいなところを旅していると、人生で知りたいことの大部分が、その旅に詰まっている気がするものだ。しかし、もしかしたらそれは当たり前のことなのかもしれない。生とは死に向かって収斂していく時間の連なりに過ぎず、そうした生の範囲の中でももっとも死に近い領域で展開される行為が冒険と呼ばれるものだとしたら、それは必然的に生の極限の表現ということになるだろう。

臆病で怖がりで危ないことの大嫌いな私は、絶対に冒険に行かない。生と死のギリギリの境目なんて、お産だけで、もうたくさんだと思ってしまう。だから、冒険家は男に多い。と、角幡さんも書いていた。私も、そう思う。

(引用はすべて「探検家、36歳の憂鬱」より)

2012/12/18