虫眼とアニ眼

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2021年7月24日

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「虫眼とアニ眼」養老孟司 宮﨑駿 新潮文庫

2002年に出された本の文庫化。「もののけ姫」と「千と千尋の神隠し」を中心とした養老孟司と宮﨑駿の対談と、互いに相手に何を感じたかが書かれている。

この本の一番最初には、宮﨑駿の「養老さんと話して、ぼくが思ったこと」という漫画が載っていて、その絵がじつに楽しい。中に、「まず町のいちばんいいところに子供たちのための保育園を!」というページがある。そこに載せられている保育園の絵が、荒川修作の三鷹天命反転住宅にとても似ている。と思っていたら、対談の中にも荒川修作の名前は出てきて、宮崎さんは荒川修作のファンなのだ、とわかる。

荒川修作の三鷹天命反転住宅には少し前に見学に行った。関連するので、その話は明日にでも書くことにして。

子どもたちが家に帰りたがらない保育園を作る!とここで書いていた宮崎さんは、後に本当に事務所近くに保育園を作っていらっしゃる。夢がかなったのね。目に見える、具体的な、この子たちを喜ばせたい、という気持ちが原動力となる、という言葉が対談の中に出てきたが、その気持ちはよくわかった。抽象的な「子供たち」という言葉より、目の前のこの子が笑ってくれる、ということのほうがずっとエネルギーになるものね。

自分のアニメを子どもが毎日見ているなんて話を聞くと、宮崎さんは、しまったなあ、と思うそうだ。そんなの年に一回見てくれればいいから、もっと外で遊んでくれ、と思うそうだ。美術館を作ったり、保育園を作ったりするのは、彼のそういった願いの現れなんだろう。

この本で印象に残った一節。養老孟司の言葉だ。

いわゆるリアリズムという言葉が死語になりつつあるでしょう。たぶんリアリズムという言葉がはやった時代から誤解されていたのだと思うのですが、アニメーションがリアリズムだと言ったら、おそらく何を言っているんだと思われるでしょう。でもじつはリアルというのはそういうことなんですね。本当に存在しているのは我々の頭の中だけですから、それが非常に普遍的なだれにでも感じ取れるというのを、むしろリアルと言う。
 だから、哲学では本来、頭の中にある観念的あものが実在するという考え方がリアリズムなのです。一種のプラトン主義ですけど、観念が実在していて、個々の具体的な事物というのはそれが不完全に表現されているものというんでしょうか。その具体的な事物からどうやって実在感を起こしてくるか、というのがアートなんです。それを理屈で言うとやはり力がなくなっちゃうから、感じてもらうしかないわけです。(中略)
 たとえば、お百姓さんが田んぼで一生懸命働いていると、いつしか里山の風景ができます。しかしお百姓さんがそれを作ろうと思って働いたのかというとそうではなくて、ただひたすら米を作りつづけてきたわけですね。
 そうやってひたすら米を作りつづけているうちに、次第に「努力」「辛抱」「根性」といった抽象概念が自然と根づいてくる。けれども、若い人たちに向かって「おまえは根性が足りない」と言っても通じるはずがない。こういう抽象概念はそんなに簡単に理解できるものではないし、理屈で説明できるものでもないんですね。苦労しながら自分で体得していくしかない。
            (引用は「虫眼とアニ眼」養老孟司 宮﨑駿 より)

2014/10/9