おじいちゃんとおばあちゃん(そして、読み聞かせ活動について)

2021年7月24日

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「おじいちゃんとおばあちゃん」E・H・ミナリック 福音館

 

こぐまのくまくんが、森のなかに住むおじいちゃんとおばあちゃんを訪ねるお話。おじいちゃんもおばあちゃんも、とっても優しくて、一緒に過ごすのは楽しい。くまくんは、本当に大事にかわいがられているのだなあ、と思う。
 
・・・というのが感想で、ここからは余談なのだけれど。
 
この本を勧めてくれたのは、私が読み聞かせに行っている小学校の司書さん。今年度から新しく赴任されたらしい。先日、読み聞かせボランティアの懇親会があって、そこで彼女が猛プッシュしていたのがこの本だった。
 
読み聞かせボランティアは保護者だけでなく、保護者OGや地域の老人会のみなさんも参加している。活動は十数年に及んでいる。
 
懇親会は毎年行われていて、いつもはみんなが自己紹介しあい、好きな絵本について語り合う和気あいあいとしたものだったのだが、何故か今年は司書さんが仕切った。最初に全員がそれぞれ持ち寄った「好きな絵本」の一行だけを読まされた。次に、司書さんが話し始めたのだが。
 
私どもがここに配置されたのは、優秀な子どもたちを育てるためです、と彼女は最初に言った。読み聞かせには様々な流儀があることは承知している。だが、ここは学校であり、我々が行うのは国語教育である。ここでの読み聞かせは決してお楽しみのためではなく、子どもたちに国語力をつけるため、優秀な成績を取らせるための授業の一環である。それだけは忘れないでほしい、と。
 
たぶん、私は驚いた顔をしていたのだと思う。司書さんは、私の方を見て、「いろいろな流儀があることはわかります。みなさんは、ご家庭では、自分のお子さんをお膝において、好きなだけ、楽しみのための読み聞かせをなさってください。」と言った。
 
それから彼女は様々なことを言った。低学年には昔話を。行きて帰りし物語が良い。高学年は、反応がなくても気にするな。本の選び方は悩むところだが、100年続いている本、を心がけよ。できれば学校図書室にあるものを中心として選び、それを読書活動につなげるようにしてほしい、と。
 
それに続けて。こんなことを話し始めた。読み聞かせをいくらしたところで、それが読書活動に必ずしもつながるものではないという研究結果も最近では出されている。最近の大学生を見ると、どんなに読み聞かせをしてやっても、実際、みんなゲームや他のメディアに行ってしまっている。また、国語教育そのものも、以前とはかなり変わってきている。物語を読んで、人物の心情を読み取るというようなものから、「どこに何が書いてあるか」を探す方向に変わってきている。契約社会で、契約書に何が書いてあるかを正しく読み取れる子どもを育てるという方向性である。私たちの子供の頃を基準にものを考えてはいけない。今はまるで変わってしまっているのであるから、と。
 
そのようなことを話したあと、彼女は言ったのだ。たとえば、「おじいちゃんとおばあちゃん」のような本を読むと、それがわかると思います、と。
 
私は彼女の話していることがよくわからなかった。選本というもっとも重要なポイントで出された具体的な題名がただ一冊だけだったので、それでこの本を読んでみた。だが、何もわからなかった。いったい彼女が読み聞かせに何を求めているのか、どんな意義を認めているのかも、全くわからなかった。
 
私は、この読み聞かせ活動の初期に、組織化、ルールの明文化を行った当事者でもある。が、既に現役を離れて久しい、ただのボランティアの一員にすぎない。今の活動に口を出すべきではないと思うから、何も言わなかった。が、この司書さんの管理下に置かれるのだとしたら、もうこの読み聞かせ活動からは退いたほうがいいのかもしれない、と思った。
 
学校で行われる読み聞かせである以上、それが授業の一環であることは間違いない。だが、それは優秀な子どもたちを育てるため、子どもたちの国語力を引き上げるためのものであるとは、私は全く思っていなかった。
 
朝の十分、十五分間、子どもたちが本を読み聞かせてもらうことで心を温め、ちょっといい気分になってくれれば十分だと思っていた。教師ではない別の大人が知らないお話を聞かせることで、学校や家庭とはまた違った世界を広げられる機会になればいいと思った。自分たち子どもはいろいろな大人に大事に思われ支えられているのだと、なんとなく感じてくれればいいとも思っていた。面白いと思えば自分で本を手にとることもあるだろうけれど、それは副次的なものであって、その場で物語の世界に入る時間や機会に出会うこと、それがすべてだと思っていた。成績がそれによって上がるなんてことは、思いもしなかった。
 
国語力を上げ、優秀な子どもたちを育てるのは、学校の先生たちの仕事である。私たちボランティアは、そうした先生たちにはできない別の隙間を埋めればいいのだと思っていたのだ。
 
すっかりがっかりして、もう引退だ・・・と思ったのだが。ボランティアの人数も足りないようだし、いったいあの司書さんがどの程度、活動内容に関わり合っているのかも、現段階ではわからない。少なくとも、今年度に入ってからも、今まで私は彼女の顔さえ認識しないで活動してきた。ということは、あの場で何かを言ったところで、実は具体的には何もやっていないのかもしれない。ということで、とりあえず、冷静さを取り戻し、もうしばらくはボランティアを抜けずに続けてみることにはしたのだが・・・・。
 
なんともやりきれない思いだけが残った。他の小学校でも、読み聞かせは優秀な子どもたちを育てるために行われているのだろうか。本当に、「今はすべてが変わってきている」のだろうか。

2017/7/4