おやじはニーチェ

おやじはニーチェ

77 高橋秀実 新潮社

2019年の10月以来の高橋秀実である。前回の本では言葉についてまじめに考えていたはずなのだが、言葉で言葉を考えるというのがいきなりつんのめる、という話から始まっていた。このようによくわからない屁理屈をこねながら物事を考え、取り進めていくのがこの作者の特徴なのだが、こういうとこ、実はお父さんから受け継いでるのかなあ、と思わせるような内容の本書である。

「おやじはニーチェ」は「認知症の父と過ごした436日」という副題がついている通り、妻に先立たれた認知症の父親を介護した日々がつづられている。介護というのは言うまでもなく大変なのだが、高橋秀実の手にかかると、どことなくユーモラスで気の抜けたものになるのがいい。自由業で時間が自由になる高橋がほぼ毎日父親の相手をするため、仕事ができず、本当に困ってはいるのだが、そこはノンフィクション作家だけあって、深い観察思考や調査が伴っている。が、それよりも何よりも、認知症の父親への寄り添い方が絶妙である。

例えば、時間や場所の見当識を確認するために、彼は父親に「ところでさ、俺たちがいまいるところはどこ?」と尋ねる。散歩の途中で立ち寄ったファミリーレストランでのことだ。

「どこが?」
父はそう問い返した。
ーどこがって、ここが。
私は床を指さした。
「ここがどこかって?」
ーそう、ここはどこ?
「どこが?」
ーここが。
「どこ?」
ーいや、だからここ。
「だからここってどこだ?」
ーだからここじゃなくて、ここ。
「どこ?」
ーここ。
「ここってどこだ?」
逆に質問されて私は一瞬、わからなくなった。「ここ」はここであって、「どこ」でもないのである。
考えてみれば、「ここ1週間」という言い方もあるように、「ここ」は時間と空間の起点を表している。「ここ」は「どこ」かに「ある」ものではなく、「ある」ということを生み出す呪文ではないだろうか。
私はなぜここにいるのか?
ここはどこなのか?

もう、こうなっちゃうと、高橋秀実も父親と一緒に言葉の迷路に入っちゃっているのである。それも大真面目に。この人は、こういうところがある。理屈に支配されて、現実から乖離していく。お父さんそっくりじゃん。最終的にこの会話から、彼はヘーゲルに飛んでっちゃうので、

「認知症は治らないと言われている。しかしこれが病気でなく哲学的問題なら、たとえ直らなくても解決することはできるのではないだろうか」

と考えたりするのである。

このお父さん、なかなかのつわもので、例えば介護認定調査員に「100引く7は?」と問われると

「100引く?」
父は驚いたような表情を浮かべた。
ーそう、100引く7。
「100引く7って、こう、引くのか?」
綱引きのような仕草をして父はたずねた。
ーそう、引く。
「じかに?」
真剣な面持ちで父は私に訊いた。
ーじかにって?
「だから、こう、じかに引いちゃうのか?」
力強く引く父。
ーそう、じかに引く。
「いいのか?」
ーいいのかって・・・。
「それでいいのかって訊いているんだよ」
いいです、っていうか引いてみてよ。
「じかに?」
ーじかに。
「お前ね、じかにって簡単に言うけど、そりゃ大変だぞ」
ー大変なんですか?
かしこまってたずねると父はうなずき、遠くを見つめて「そりゃ大変だ」と溜め息をついた。

ここでも高橋秀実は父にも一理ある、と考える。通常は数字をじかに引くのではなく、物体などに仮託して個数や金額として引くわけだから、数字から数字を「じかに」引くのは数字自体の存在を破壊するようである、と考える。こういうとこ、高橋秀実よねー、と私はあじわっちゃうのだ。

こうして高橋秀実は、最後にはもう自分が息子であるとすら認知しなくなった父親の最後の436日間を伴走する。とても彼らしいやり方で、そして、しょっちゅう奥さんに叱られたりしながら。

高橋秀実の面白さは、屁理屈ともいわれかねない、このどこまでもまじめに理屈を突き詰めるところにある。それは実は非常にユーモアに富んだ作業なのだが、それでいてまっすぐに生真面目なものでもある。

それにしても、認知症。いつか私も、あなたも、である。どうにか柔らかく、温かく、そして多少理屈っぽく、受け止めあっていきたいものだと改めて思う。

(引用部分はすべて「おやじはニーチェ」より)