不明解日本語辞典

2021年7月24日

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「不明解日本語辞典」高橋秀実 新潮社

 

著者は「言葉についてきちんと考えてみよう」と思い立ったそうだが、
 
考えるといっても言葉で考えるわけで、言葉を言葉で考えるのでは対象と手段が同じになってしまい、いきなりつんのめる感じである。それに、この「考える」というのもひとつの言葉。ある行為のことを「考える」と呼んでいるのであろうが、では、何をすることを「考える」と呼んでいるのかと改めて国語辞典などで調べてみると、「考える」はもともと「かんがふ」。「かむがふ」の音便形で、「か」(点や場所)と「むかふ(向き合う)」からできているらしい。何かと何かを向き合わせることで「よく調べて判断する。また、占いによって吉凶を判断する」(『三省堂 詳説古語辞典』2000年)という意味になるそうで、いずれにしても「判断する」ということなのだが、私は別に言葉を判断しようなどとは思っておらず、自らの行為を「考える」と呼ぶのは正確ではない。となると、私が今していることは実態としては何なのだろうか。
               (引用は「不明解日本語辞典」高橋秀実 より)
 
という具合に初っ端から混乱し始める。というか、これが高橋秀実のいつものパターンなのであるが。
 
「考える」とは実態としては、何かを声を出さずに「言っている」ということなのだろうが、何を言っているかというと言葉を言っているわけで、ということは、「言葉を考える」とは「言葉を言葉で言う」ということになり、言うのは言葉しかないのでそれを省略すると「言う」だけが残る。結果、ことさら何をしようとしているのかわからなくなってしまう。
 
こういった流れが、非常に好きだ。というのも、私は可愛くない子供だったので、友だちと楽しく遊んだりおしゃべりしたりするよりも、教室の隅っこで一人で何事かを延々と考えたり妄想したりするのを好む子であった。何を考えていたかというと、まさしく上記のようなことをぐるぐるぐるぐる考えていた覚えがあるのだ。
 
考えるというのはどうやって考えるのか、と考えているときにはもう考えているわけで、そう考えている私の頭の中に何かが浮かんだときにはもう考えは始まっているということは、考える前はどうなっていたかというと思い出せなくて、じゃあ、いつも考えているかというと何も考えていないときもあるのだが、何も考えていないときは何を考えていたかわからないが、本当の空っぽという状態が想像できなくて、いつも私はどうしているかというとこうやって考えているわけで、それは・・・・・
 
みたいに考えていると、簡単に一時間くらい経ってしまうのを、小学生の頃からやっていたなあ、と懐かしく思い出すのである。高橋秀実の本は、変な方向にいつも向かっていくが、その方向が、実は私にはあんまり変ではなく、既視感のあるものなのだ。
 
まあ、そんな感じで、この本では32語の見出し語について追求している。最近、私は母の断捨離に付き合っていて、色々思うところがあったので、「スッキリ」という項目はとても面白かった。
 
やましたひでこ「新・片付け術 断捨離」からの孫引きされていたのだが、たとえば
本来、物は「私が使う」から価値があるのに、多くの人は「眼鏡は使える」「箸は使える」というふうにモノが主語になっている。主役の座をモノに明け渡している。という指摘は非常に深い。そこから著者は「スッキリとは、自分を主語にすることなのである。」と説明する。が、同時に、「本当に本人はスッキリしているだろうか?」と疑問も呈している。そして、逆に、究極の断捨離人間、無駄なものは全て捨てなければ納得しない人を紹介する。椅子の背もたれは要らないので、のこぎりで切って捨てる。食器棚も食器が半分しか入っていなければ、半分は切って捨てる。文庫本も読み進むと呼んだページは無駄なので切って捨てるそうである。そうやって無駄なものを捨てるとスッキリする。が、スッキリするためには無駄なものが必要で、常にスッキリする状態を維持するためには、常に無駄なものを用意しておかねばならない・・・・。
 
こうやって高橋秀実は読者を迷宮に連れて行ってしまう。この理由のわからないぐるぐる思考の中で、ぼんやり佇むのが、私は子ども時代に戻されたように、なんだか心地よいのである。
 

2019/10/21