さよなら、ニルヴァーナ

さよなら、ニルヴァーナ

2021年7月24日

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「さよなら、ニルヴァーナ」窪美澄 文藝春秋

読まなければよかったかもしれない。最後まで読んでしまったのは、きっとどこかに救いがあるはずだ、と思ったから。何らかの落とし処、救い、あるいはカタルシスがなければ、そもそもこの物語が描かれるわけがない、と思っていたからだ。だが、そんなものを求めた私が軽薄だったのだろう。

少年Aについては、うまく物が考えられない。あの事件が起きてまもなく、彼の顔写真や名前が載った写真週刊誌を買うかどうかで友人と言い争いになったことがある。幼い女の子の親として、許しがたい犯罪者の情報はできるだけ公開すべきだという友人に、私は未成年者は保護されるべきである、と言った。その議論に結論はなかった。

私は、あの少年に怒りとともに、更に大きく哀しみを感じていた。まだ中学生の彼がそんなことをするに至るまで、周囲の大人が誰一人として彼の孤独に、彼の闇に、彼の殺意に気づいてやれなかったことに、大人のひとりとして罪悪感を持っていた。親である私は、殺された幼い子の親であると同時に、それをいとも簡単に殺戮した少年の親でもありうるのだ、と思わずにはいられなかった。その気持ちを、ずっと処理しきれないままでいた。

あの犯罪を大人が題材として取り扱う以上は、あの少年の心に何らかの救い、贖罪、罪をどう背負っていくかのビジョンがなければならない、そこからしか出発はできないだろうと私は勝手に決めていたのだと思う。例えば「友罪」は、それが十分だったかどうかは別にして、罪を犯した過去をどのように背負っていくか、という問題が大きなテーマとして扱われていた。それを読むことで、私はもう一度自分の心を整理し、やっぱり結論などでないのだと確かめることはできたのだ。

この作品が発表された時点では、少年Aの本はまだ出版されていなかったし、もちろん例のホームページも開かれていなかった。

少年Aの本を読もうとは思わない。被害者の遺族の何らかの納得、理解、了承を得ないかぎり、彼が何かを発表して利益をえることに、私は同意できないし、編集者や出版社はもっと大人として彼を成長させるための手立てを講じるべきだったと考えている。

この本は、少年Aを題材に、三人の女性の姿を描いている。テーマは少年Aの贖罪ではないといえばそれまでだ。だが、あきらかにあからさまに彼が、彼のしたこと、彼の社会における存在がバックボーンとして置かれている以上、彼に対して、どのような立場にたち、どのような姿勢を取るかを私は問いたい。そして、何も得るものはなく、後味だけが悪いとしか思えない。登場する女流小説家の自意識のために、彼の存在が利用されたとしか思えない。

あの本やホームページが発表された後、この本はどれだけの意味を持つのか。これはフィクションだとたとえ言ったところで、彼の存在から逃れ得るものではない。

ただただ哀しく、無力感だけが残る物語であった。

2015/11/9