ふたりからひとり

ふたりからひとり

2021年7月24日

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「ふたりからひとり」つばた英子 つばたしゅういち 自然食通信社

昨年見て一番感動した映画は「人生フルーツ」である。二人合わせて177歳の夫婦の姿は穏やかで美しく、こんな歳の取り方ができるものなら、としみじみ憧れるものであった。それからご夫婦の「ときをためる暮らし」を読んで、英子さんって素敵・・・と思った。この本は、しゅういちさんが畑仕事のあと、お昼寝したまま静かに亡くなってしまった、その後の話が中心となっている。が、時々しゅういちさんも出てくるのよね。

英子さんは、しゅういちさんがいなくても、同じように丁寧に暮らしていらっしゃる。少しずつ変わった点もあるけれど、無理をしない範囲で、やっぱり誰かのためにしっかり何かをしていこうという姿勢があって頭が下がる。

色々なエピソードから、実はしゅういちさんは結構頑固で面倒な親父でもあったのだなあと分かる部分もある。が、英子さんはそんなしゅういちさんを、明るく、そのまんま受け止めてあげていた。ありがとうって言っておけばよかった、というのが彼女の唯一の後悔らしい。そうか。じゃあ、私は、ありがとうを言うべき人に、ちゃんと言っておかなくちゃ。

しゅういちさんは、お亡くなりになる二年ほど前に二週間ほど入院されていた。病院にいればいるほどだめになっていく、と訴えて逃げるように退院して、自宅に帰ってきて「ここが桃源郷だ」と思ったのだそうだ。「桃源郷」という旗を作って部屋に掲げたという。病院で死ぬというのも考えものだなあ、と思う。でも、誰にでも英子さんみたいな伴侶がいるわけじゃないしねえ。

歳を取る、ということに直面する今日このごろである。私たちは、今日のような明日がある、いつまでもこんな生活が続くとどこかで信じている。でも、それはある日、突然打ち切られる。通常、それは「死」によるものだ。私は昨年末、父のありふれた日常を、ある日突然、施設に入れることで打ち切った。それは、ある意味で、父の一部を殺したことだと思った。どうしてもそう思っちゃうんだよね。

先日、高校時代の友人に久しぶりに会った。彼女も、認知症になった父親をホームに入れた。数年後、お亡くなりになったという。私が父の話をしたら、まあ、そう思うのはしょうがない、と言われた。佐野洋子が「シズコさん」の中で、何度も何度も母をお金で捨てた、みたいな表現をしていて、くどいなあ、しつこいなあ、そんなに何度も書くなよと思ったけれど、やってみたらよくわかった、という。そう思っちゃうから、何度でも言いたくなっちゃう。言わないと気がすまない。あなたも今、その気分の真ん中にいるのだから、それ、言っちゃっていいのよ、と言われた。捨てた、殺した、と何度も言って、それから何度も面会に行くでしょ。だんだんこちらのこともわからなくなってくるし、しかもそんなに嫌そうでもない、案外幸せに生活しているのよ。それを見ているうちに、なんだか落ち着いてくるのよ、気が済むのよ、これでよかったんだと心から思えるようになるのよ、と。そんなもんか、と思った。少し、楽になった。

つばたしゅういちさんは、ごく普通の日常のなかで静かにお亡くなりになった。まだ、本人は死んだなんて気がついていないのかもしれない。英子さんも、あんまり死んだ感じがしていないという。それは、ものすごく幸せなことだ。お金もない、財産もない、華やかでもない、静かにこつこつと働く日々を重ねることが、こんなにも美しく幸せなことなのだと気が付かされる。これ以上の幸せは、ないのかもしれない。

2018/1/19