ふるさとって呼んでもいいですか

ふるさとって呼んでもいいですか

2021年7月24日

66

「ふるさとって呼んでもいいですか 6歳で「移民」になった私の物語」

ナディ 大月書店

 

著者ナディは1991年、6歳のときに家族ぐるみでイランから日本に来た。観光ビザで入国し、その後は不法滞在、後に在留特別許可を得ている。今では日本の企業に就職し、結婚して日本で子供を育てている。日本で暮らす外国人のことをもっと知ってほしいと子供向けに書かれたのがこの本である。(本文には総ルビがふってある。)
 
六歳で来日して、以後、日本で暮らしたナディは徐々に日本語に慣れ、遂には兄弟での会話も日本語になる。両親はペルシャ語で話すが、答えは日本語。来日後十数年で一度イランに里帰りするが、そこはもうふるさとではない。言葉も通じにくく、習慣も文化もナディにとっては異国のものになっている。日本では外人と呼ばれ、イランでも馴染めない。どこへ行ってもよそ者であり続ける彼女の気持ちは、数年おきの転勤続きでこれまで生きてきた私に取っては他人事ではない。
 
彼女が選んだわけではない。親につれてこられただけだ。だのに、最初は十分な教育も受けられなかった。健康保険に入れないために、医療費が払えず、怪我や病気をしてもまともな医療も行けられなかった。後に、これらの問題は徐々に解決はしていくが、学校は一年遅れで入って、ついていくのは大変だった。膝の靭帯を切っても医療費が払えないために我慢して、切れたまま放置していたために後遺症もある。日本人の税金で外国人を援助するなんて無駄遣いだ、勝手だ、という意見に理がないとは言わないが、子どもがそうやって犠牲になることに、私は痛みを感じるし、なんとかしてやれないかと思う。だって、子どもは親を選べない。生きる環境を選べない。
 
ナディは、この本を書くに際して大きな壁にぶつかったという。自分の意思や要望を書けない、ということだ。日本に住まわせてもらっているのだから、日本人に嫌われたら住めなくなる。在留特別許可をもらえて合法的に暮らせるのも日本のおかげなのだから、それに答えて真面目に生きなければならない。外国人の権利や環境に対して何かを主張したり要求したりする権利はない、とずっと思ってきたという。
 
 でも、この本を書いている最中に、それがまちがっていると気がつきました。自分の思いや主張を言葉にすることは、この世界に生きるすべての人が人権として平等にもつ権利だと、はじめて気がついたからです。気づいた瞬間、胸の奥からこみあげるものがありました。
 私の人権はイランに置いてきたもので、日本では黙っているべきだと思っていました。でも、今なら私はこう言えます。
 私のふるさとは、日本です。この先も日本で暮らしていきます。
 私の経験が、いつか日本のどこかで、性別や年齢、見た目、国籍などを超えて、だれかの役に立つことがあれば、それは私にとってこの上ない喜びです。
 
       (引用は「ふるさとって呼んでもいいですか」 ナディより)
 
 
誰かが困っているとき、傷ついているとき、その人が何人であるか、どんな髪の色、どんな肌の色、どんな体つきをしているか、よりも、その人が何を必要としているか、を考えられる人間でありたい、と私は思う。それは、日本の中ではあるけれど、いろんな地方を転々として、どこへ行っても「よそ者」でしかない、これからもずっと「よそ者」であり続けるしかない私の願いである。そんなことを、改めて強く確認できる本であった。
 
 

2019/7/25