わかりあえないことから

わかりあえないことから

2021年7月24日

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「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」

平田オリザ 講談社

 

夫が会社の研修で平田オリザの話を聞いて面白かったという。そこから、これを借りてきたらしい。夫いわく、古舘伊知郎は言葉の冗長率が高いので余計なことを言うように聞こえるが、久米宏はトピックに応じた冗長率のコントロールが天才的だった、という指摘だけでも、この本を読む価値はあった、のだそうだ。
 
企業の人事担当者が新卒採用にあたって最も重視するのは「コミュニケーション能力」だそうだ。2012年には82.6%。ちなみに語学力は6%前後だという。
 
現在、表向き、企業が新入社員に要求するコミュニケーション能力は、「グローバル・コミュニケーション・スキル」=「異文化理解能力」である。(中略)
 異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる。文化的な背景の違う人の意見も、その背景(コンテクスト)を理解し、時間をかけて説得・納得し、妥協点を見いだすことができる。そして、そのような能力をもって、グローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる。(中略)
 しかし、実は、日本企業は人事採用にあたって、自分たちも気がつかないうちに、もう一つの能力を学生たちに求めている。あるいはその全く別の能力は、採用にあたってというよりも、その後の社員教育、もしくは現場での職務の中で、無意識に若者たちに要求されてくる。
 日本企業の中で求められているもう一つの能力とは、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見は言わない」「輪を乱さない」といった日本社会における従来型のコミュニケーション能力だ。
 今就職活動をしている学生たちは、あきらかに、このような矛盾した二つの能力を同時に要求されている。しかも、何より始末に悪いのは、これを要求している側が、その矛盾に気がついていない点だ。ダブルバインドの典型例である。
 
筆者は富良野の小中学校で演劇のワークショップを毎年行っている。たとえば、朝の教室で、生徒たちがしゃべっているところへ先生が転校生を連れてきて紹介し、多少のやりとりのあと、先生は職員室へ帰る、という概要だけを決めて、後は生徒たちに台詞を作らせる。「黙っている」「教室から去る」などの選択も含めて、全てが表現として容認され、任される授業においては、日頃授業に参加しないようなどんな生徒でも、必ず台詞を書くという。国語教育の柱は「読む、各、聞く、話す」の4つだが、筆者のような表現者にとっては「読む、各、聞く、話す、話さない、いない」が表現であるという。この指摘が私には新鮮で興味深かった。
 
本書の最後に、筆者は犯罪者が小さい頃からいい子を「演じさせられるのに疲れた」という言葉に注目する。演じるとは自分を偽ることであり、相手をだますことのように思われているが、人間のみが、社会的な役割を演じ分けられる、ということを彼は指摘する。演じるということの本来的な積極的な意味合いを見出し、かつ、先に指摘した日本的ダブルバインドまでも、単純に悪いことではないと考える。その状況をはっきりと認識し、そこと向き合うことから始める。分かり合えないというところから歩き出す。それしかないと彼は言うのだ。
 
 人間は、演じる生き物なのだ。
 進化の過程でわたしたちの祖先が、社会的役割を演じ分けるという能力を手に入れたのだとするならば、演じることには、必ず、何らかの快感が伴うはずだ。
 だから、いい子を演じるのを楽しむ、多文化共生のダブルバインドをしたたかに生き抜く子どもを育てていくことは夢物語ではない。
 演劇は、人類が生み出した世界で一番面白い遊びだ。きっと、この遊びの中から、新しい日本人が生まれてくる。
 
        (引用は「わかりあえないことから」平田オリザ より)

2014/12/25