ツンドラ・サバイバル

2021年7月24日

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「ツンドラ・サバイバル」服部文祥 みすず書房

 

筆者は「サバイバル登山」を信条としている。それは、装備を最低限にして、食料を現地調達しながら長期間行う登山のことである。ヘッドランプ、時計、ラジオなどの電気製品やストーブ、コンロ、燃料、テントなどは携行せず、食料は米と調味料とお茶だけ。山の生き物を捕獲したり山菜やきのこを採っておかずとする。人間は自然の一部であるという彼の哲学に基づく行動である。
 
この本には幾つかの国内山行と、シベリアのツンドラ徒歩旅行が描かれている。ツンドラと、もうひとつはテレビ取材の旅でもある。
 
GPSや携帯も持たないし、食料も現地調達するのはたしかに本来的な意味での人と山との向き合い方であるかもしれない。が、その一方で、立派な釣り道具や鉄砲は持ち込むし、楽しみのために魚をとっては放流したり、鹿を必要以上に打ちとって捨て(山に返し)たりはする。その辺りの矛盾は気にしないのだろうか。
 
難所を登攀したら、その成功の後に、誰かがそのラインで遭難しなくてはならない、というアフォリズムがあるという。リスクの大きさの証明のために、他人の死が必要なのである。筆者は自分が滝から墜落し、大怪我をした後に事故現場を訪れ、「自分がタフガイであることを証明するのに、他人の死ではなく、自分自身の派手な墜落でもまあ、多少の用は足りるのではないか。」と述べている。登山も人生も、死ぬかもしれないから面白いのだそうだ。
 
困難や恐怖の中で自分を失わず、生きつづけること。これは生物の基本的な喜びだと私は考えている。窮地を脱することに肯定的な感情がなければ、生命が今までつながっているはずがないからだ。「いまのはやばかった」というのは、恐怖の残像ではなく、生きる喜びなのである。登山の愉しみはそこが背骨だと私は思う。
              
                  (引用は「ツンドラ・サバイバル」より)
 
無頼派の文学者みたいなことを言うのね、と思う。それから、無謀運転を見せびらかす暴走族のあんちゃんたちも実は同じことを考えているのかもしれない、とも同時に思う。彼らはそれをかっこいい言葉で表現できないだけでね。
 
筆者は、家族にどの山でどれくらい登ってくるかを教えない山行にも行く。なにか起きた時に、誰にも気付いてもらえず、助けられずに朽ちていくかもしれないという野生の状態に身を置きたいからのようだ。「息子にくらい、どこに行くか言ってってくれよ」という小5の訴えも退けて、出かけていく。結果、「たくさん反省して帰ってきました」と家族には言ったらしいが。もう一度試してみたいなどとほざいている。
 
ツンドラへの旅でも危険に何度も直面したが、ミーシャというトナカイ遊牧民と仲良くなって無事に帰ってきた。帰宅後、失職の危機に瀕してどうしようもなくなったのだが、トナカイ遊牧民にしてもらうから心配ない、などと口走る。家族はどうするんだ、と問われて、おっと忘れていた、と平気で言うのだけれど・・・・。
 
なんだかなあ、と思う。一見立派そうな理屈は述べているけど、やってることは結構むちゃくちゃだ。結局は「俺って凄い」と思い続けたいだけにみえる。冬の山行なんて、寒いから行きたくないなあ、とグズグズしながら、決めちゃったんだから、といやいや行ったりして、じゃあヤメればいいじゃん、と思わずにはいられない。いつも自分がすごいと行動で確認しないと不安になるって、そういうのをタフというのか?
 
先日、「エヴェレスト 神々の山嶺」という映画を娘と見てきた。見終えて娘が「この映画の教訓は、山登りは周りの人に迷惑をかけるからやっちゃダメだってことだね」と言った。笑ってしまった。とんでもない氷壁を、無酸素単独登攀して下山途中で死んじゃった登山者を主人公が敬意を持って探しに行く物語だった。何もそんな危ないルートを一人で行く必要なんてなんにもないのに。妻も子どももいるのに、しかも日本には別に残した恋人だっているのに。山に登るってそんなに立派なことか?と私も思ってしまった。山登りは好きだけど、ちゃんと帰ってきてこそでしょ。
 
男のロマンとつまんないおばちゃんのたわごとはどこまでもすれ違う。だけど、我が身を危険に晒したり、大怪我をしたり、それで家族に心配をかけ、迷惑をかけ、生きてることを味わって、それが自然であるなんて、いやいや、実に頭でっかちであることよのう、と思ってしまう。人間は、長い歴史の中で学習して道具を使うことを覚えたし、そうして自分の身を守り、安全を確保するすべも身につけたというのにね。
 
とはいえ、馬鹿な男だなあ、と思いつつも自分ができない旅の話はつまらなくはない。そういう意味で、私も矛盾した存在ではあるのだった。

2016/4/4