テレビは原発事故をどう伝えたのか

テレビは原発事故をどう伝えたのか

2021年7月24日

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「テレビは原発事故をどう伝えたのか」伊藤守 平凡社

3.11以後、どの家庭もテレビをつけっぱなしにしていたのではないだろうか。日頃は、見たい番組を見るときにだけTVをつける習慣のあった我が家でも、この時期は、起きている間中、テレビがつけっぱなしという日々が続いた。とりあえず、テレビをつけておけば、必要な情報は手に入るのではないかという気持ちがあったからだ。

しかし、テレビは原発事故について、何を伝えたか。最初は危機を伝えたはずのテレビが、ある瞬間から、「安全である」「直ちに危険はない」「念のためである」と言う言葉を発するようになった。原発について、批判的な専門家が何故か引っ込んで、「放射性物質は衣服にくっつくだけで、落とせるから大丈夫」とか「海の放射性物質は拡散していくから危険はない」とか、我々素人でも「それはないだろ」的なことを口走るようになった。明らかに本当のことをしゃべってはいない、と顔つきだけでわかるような「専門家」が何人も登場したのを、私だって覚えている。

この本は、3/11から3/31までの期間のNHKと民放キー局4局の報道映像800時間分をすべて見ながら分析調査した結果として書かれたものである。これを読むと、ある瞬間から、民放が同じ論調に変わっていったことも、民放が何を伝えられなかったのか、何が足りなかったのかも明らかになってくる。

筆者がこの本で指摘しているのは、以下の三点である。

1.取材力の決定的な欠如

政府の発表がどのような根拠でどのような議論のもとになされたのか、と高濃度の汚染地域がどのような状態にあるのか、を伝えなかった。また、独自に土壌の核種分析を行なっていれば、政府や東電がどんなに隠しても炉心溶融は早い段階で推測が可能であったのに、科学者と連携した積極的な取材を行わなかった。(独自に現地入りした科学者は早期にそれを確認していた。)「直ちに健康に影響はない」と繰り返し報道しながら、自社の社員には、「危ないから入るな」という矛盾した姿勢を取り、現地取材を規制し続けた。

また、後に大きな問題となるSPEEDIの結果を公表するよう働きかけた記者がいたにも関わらず、文科省からそれを拒絶されると、それ以上公開を求めなかった。最低限、SPEEDIの存在と、それを公表しないとした文科省の見解については、報道する責任がテレビメディアにはあったはずである。

2.科学コミュニケーションの失敗

科学技術に欠陥が生じて重大な事故が起きた場合は、科学者、専門家の社会的責任は極めて大きい。今回の事故で、科学者の多くは「炉心溶融の可能性が極めて高いと判断される場合でも、実際の炉心を開けてみなければ本当のことはわからないのだから、『炉心溶融』は起こりうる〈あるいは現に起きている〉事態の一つの可能性にすぎない」という意味で「可能性」を語った。この発言は事態を直視することを妨げる要因となった。もし、炉心溶融の可能性が本当に低いのだとしても、ある確率をもって生起することが予期できるのならば、その最悪の事態を想定して「何が起きるか」に言及し、放射性物質の飛散から住民を最大限守るために取りうる選択肢は何か、積極的な発言を行うべきであった。

3.社会的意思決定の問題

一部の科学者が自信の専門外の問題に対して安易に答えてしまうという問題があった。原子炉工学が専門の科学者が、「偏西風が吹いているから、放射能の飛散についてはそれほど問題にはならない」という極めていい加減な論拠のない発言を行ったことに象徴されるように、本来、様々な分野の高度な知識が求められることに対し、テレビ側が安易に一部の科学者にすべてを語らせてしまった。

一貫して原発の危険性について警鐘を鳴らしてきたのが原子力資料情報室であるが、高木仁三郎氏の死去後、原発の危険性を訴える専門家や学者とメディアとの接触がなくなり、今回の緊急事態に対応するのに、今回テレビに登場したような原発行政に関連の深い専門家に依頼するしかなかったという事情がある。「原子力ムラ」は、単に経済的関係だけれなく、こうした人的ネットワークとメディアの深い関わりや利害関係にも大きな影響を与えている。原発の地震や津波対策の不備を報道して来なかったこと、メディア関係者が原発の危険性についてあまりに鈍感で不勉強だったことを自己検証する必要があるだろう。

テレビが不十分な偏った報道を行い続けたその一方で、ネットは様々な情報を流し続けた。十分なリテラシーがあれば、ネット上では、極めて正確で正しい情報が流されていたことが、後からも検証される。しかし、その一方では様々なデマや流言飛語も飛んではいた。

電源喪失という事態が何を招くか、我々素人にも、ごく初期の段階で、震え上がるほどの恐怖を持って理解できたことを、テレビは報道できなかった。その時の、その日々の、どういうことなんだ、なぜなんだ、という恐れと焦りと苛立ちを、私は覚えている。そして、それでも、どうやら安定しているらしい、と繰り返される報道に、心が傾いていったことも覚えている。しかし、現実は、恐ろしいほどの現実であった。

あれ以来、私は、テレビというものに、信頼を置けなくなったのと同時に、ネットの情報を、十分に見極める知識と理性、リテラシーが必要である、と強く感じるようになった。

テレビというメディアが、今後信頼を持って支持され続けるためには、大いなる自己検証が必要だろうと改めて思う。

2012/7/16