呪いの時代

呪いの時代

2021年7月24日

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「呪いの時代」 内田樹 新潮社

ウチダ教授の話はやっぱり面白いなあ、と思ってしまう。この本では、草食系男子の分析と、リーダビリティの本質についての文章に、ぐっと来てしまった。

女学生たちが草食系男子をテーマに研究発表している構図というのが、既にちょっと笑えてしまう。弱者であることを誇示するポーズが一般化した背景には、「公的な強いシステムに収奪され抑圧され管理されている弱い側には正義がある」というチープな物語があるからだ、という指摘は、なるほどと思う。それから、彼らは傷つくことを恐れている。それは、人として脆くなっているのではなく、ペルソナの使い分けができなくなっているからだ、という分析も、極めて明快である。

他者との共生の基礎となるのは、実は「わが内なる他者たち」との共生の経験なのだと僕は思います。僕自身の中にも、「さもしい私」、「邪悪な私」、「卑劣な私」がいる。それらもまた僕の正規の「ペルソナ」の一つであり、それなしでは僕は僕ではない。自分自身の中にある(ろくでもないものを含めて)さまざまな人格特性を許容出来る人間は他者を許容できる。僕はそうだと思います。(中略)
「他者と共生する」というのは、「他者に耐える」ということではありません。「他者」を構成する複数の人格特性のうちにいくつか「私と同じもの」を見出し、「この他者は部分的には私自身である」と認めることです。
それは「感情移入」ということではありません。もっとずっと断片的なことです。自分と同じような感性的反応、自分と同じような生理的過程、そういうものを切り出していって、それを「共有」することです。(中略)
オープンマインドというのはそのことだろうと思います。のっぺりした「開かれた人格」というものがごろんと単体で存在するわけではない。そうではなくて、自分の中にある高潔な部分も卑猥な部分も、勇敢な部分も臆病な部分も、寛容な部分も狭量な部分も、全て受け容れ、それらを「折り合わせて」、とにもかくにも統一的な人格を維持している人間のことを「オープンマインド」と呼ぶのだと僕は思います。

弱くて可愛い男子だっていてもいいけれど、それ以外のペルソナの用意を怠ると、内なる凶悪で利己的な男が人格解離を起こしてしまう危険がある、という指摘は、秋葉原みたいな事件に、実に当てはまってしまうなあ、と思ったのだった。

そんなウチダ教授の言葉は、なんだかとても私の心にピタリピタリと当てはまる、なぜ?と思っていた。それはね。リーダビリティの本質についた文に、回答があったのだ。

読み手、聴き手の立場になって考えればわかることですけれど、僕達が決して聞き落とさないのは「これは私宛のパーソナルメッセージだ」と確信するものだからです。カクテルパーティで何十人もの人がひしめいて、音楽が鳴り、グラスがぶつかり、人々が笑いさんざめいているときでも、誰かが自分の名前を口にしたのを聞き落とす人はいません。人間はいつでも「自分についての言及」に対してのセンサーだけは最大化させています。(中略)
受信者に対する敬意を含んでいるメッセージがいちばん遠くまで届く。僕達は自分に「深い敬意を含むメッセージ」に対しては驚くほど敏感に反応します。其のコンテンツがたとえ理解不能であろうとも、僕たちは「自分に向けられた敬意」を決して見落とさない。(中略)
リーダビリティを構成する条件は、表現者の受信者に対する敬意です。「あなたの知性を持ってすれば、私が言いたいことをただしく理解できるはずである」という受信者の知性に対する信頼の上に気づかれた言葉は読者にまっすぐ過たず届く。僕はそういうものだと思います。

誰かに向かって、書く。きっと伝わるはずだと信じて書く。そう思って、書いた文章は、たしかに力をもっている。と、私は、私ですら、拙い経験のなかで、そう思う。ウチダ教授は、沢山の人に向かって書いているけれど、その中に、私も確実に入っていて、私は彼に敬意を持って向き合われているのだろうと思う。そして、私も、読んでくれる人に、敬意を持って文章を書きたいと思う。難しいけれど。
(引用はすべて「呪いの時代」内田樹 より)

2012/9/19