スクラップ・アンド・ビルド

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2021年7月24日

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「スクラップ・アンド・ビルド」羽田圭介 文藝春秋

 

言わずと知れた芥川賞受賞作品。テレビで見る羽田圭介氏の人となりが興味深く、読んでみようかと思ったら、まあ、予約数がものすごくて。半年以上待たされてしまった。
 
無表情で、結構辛辣なことも真顔で言って相手の反応に動じるところが少ない作者そのままの作品だと思った。
 
親戚をたらい回しにされて母子家庭の我が家にやってきた老いた祖父。「もう死んだほうがよか」という彼を介護しながら、主人公は祖父の思い通りに、苦痛のない尊厳死に至らせてやるためにどうしたら良いかを画策する。
 
老いた身内とどう向き合うか、は、今や私の大問題のひとつである。長く生きてきた人の尊厳を最大限に尊重しつつ、残り少ない人生をいかに豊かに生きてもらうか。そのために、まだ自由の効く、残された時間のより長い者、つまり私は何をすべきなのか。
 
そこにはキレイ事だけでは済まない様々な問題がある。とりわけ、長く自分流の生き方をしてきた人に、今から変化しろと要求するのは無理があり、気を遣えと求めたところでできるはずもない。何もかもやってあげる過保護介護は残された能力を退化させることに繋がるし、かと言って、どんなに時間がかかって大変でも自分でやれと放置するのは忍耐が必要な上、ないがしろにされたと本人からは思われ、周囲からは冷たい仕打ちと受け止められる。この作品の中で、主人公はその狭間で、少しでも早く苦痛のない死に至るために何をすべきかを考え、それを実行に移していくのだが・・・。
 
最初の十ページ目ほどで、主人公は突然、祖父の気持ちについてある気付きに出会う。「ふと、健斗はあることに思い至った。」という一行で、その気付きは始まる。が、いやあ、それって、なぜ。と、私は思っちゃったのだ。「ふと」でいいのか、「ふと」で、と。
 
ダラダラと書くのが小説ではないし、そこは簡潔にすすめるべきなのだろうし、そこを延々書いたらいいというわけでもないのは百も承知だ。この小説としては、それはそれでいいのだろう。ただ、今現在、現実にぶち当たってもがいている私としては、老人の気持ちに思い至り、そうだったのか!!と気づくことこそが実はものすごく重要なのであって、それは「ふと」なんてもんじゃないんだよなあ、と「個人的に」ものすごく思っちゃうのだ。
 
健斗の出した結論は、本当に正しかったのかどうか。それはこの作品の中では結局明らかにはならない。が、人とは混沌とした生き物であって、いつも同じ状態にあるわけでもないし、同じことを考え続けるわけでもないので、ある場面においては正しかったのかもしれない。老いへの向き合い方は一筋縄ではいかない。死にたか、という人が本当に死にたいかどうかは定かではないし、長生きしたい、という人がほんとうに生を楽しんでいるとも限らない。
 
生きるというのは難儀なことだ。楽しいこともあれば苦しいこともあるのは当然なのだが、残された時間が少なければ少ないほど、それはダイナミックに心と体に響いてしまう。しかも、許容力も受容量も、ひどく減った状態になって。
 
20代の若者が、兎にも角にも、80代の身内に向き合って、自分のできること、やるべきことを考え、やってみた、そして、深く考えた。それだけでも意味あることだと思うし、そのことに対して、この作品はとても誠実であるとも思う。それを読んだ中年ののおばちゃんは、自分はまた違うやり方しかできないんだよなあ、と思う。立場上も、経験上も、年齢上も。
 
だとしても、年を取ることに対して、ここまでまともに向き合った若い人の小説が評価され、多くの人に読まれるということにはある種の希望を感じる。現実が面倒でわかりづらくて、どうしたら良いかわからないものだとしても、だ。

2016/8/10