赤坂ナイトクラブの光と影

赤坂ナイトクラブの光と影

2021年7月24日

85「赤坂ナイトクラブの光と影ニューラテンクォーター物語」
元ニューラテンクォーター営業部長 諸岡寛司  講談社

昭和34年に開店し、平成元年の閉店まで赤坂の夜を彩ったナイトクラブの歴史。以前、「ブラタモリ」でその跡地を訪ねる企画があって、華やかな往時のエピソードを耳にし、少々興味を持っていた。この本は、そのクラブの営業部長として開店から閉店まで、最前線で働いていた諸岡氏が書いている。

大人の社交場、日本の中枢を担うエリートの集うクラブ。一日遊ぶだけで、一般庶民の数カ月分のお給料が飛ぶような料金。サミー・デイビス・ジュニアやレイ・チャールズも出演したというショー。一流企業の幹部、映画スターや歌手、政治家に、その筋の親分衆、そして、皇族に至るまでが夜毎に集っていたという。著者は、そうした素晴らしい人々と近づきになれた事を身に余る光栄と思い、あの頃は、素晴らしい大人の社交場があった、と懐かしんでいる。

確かに登場人物はものすごい面々だし、お金の払いっぷりはいいし、力道山は別として、暴れることもなく、きれいに遊ぶ人たちだったようだ。(力道山が刺されたのは、実はこのクラブでの出来事だが、なぜか、著者はその夜に限って、職場を離れていたという。)勝新太郎、石原裕次郎、中村錦之助、三船敏郎があつまって、誰が一番男としてかっこよく遊べるか、競い合ったエピソードも載っている。高い高いブランデーをアイスペールにドボドボと注ぎ込んで、直接グイッと飲んでみせる勝新太郎や、バンド相手に歌ってみせる裕次郎、ホステス相手に話術を見せつける三船敏郎、新婚早々なのに最後まで付き合った錦之助は、帰ったら奥さんがいなくなっていたというオチまで付いている。

それを、大人の男の素晴らしい遊びっぷりとして紹介している・・・こと自体が、もう、ちょっとついていけない私ではある。一流企業の社長が、入り口でお出迎えのミニスカート嬢の足元に手鏡を向けて、中を覗き込む、それがちっとも嫌味ではなく粋であった・・・・なんて話、私は大人の男のカッコいいエピソードとはとても思えない。

このクラブは、大物フィクサーと呼ばれた児玉誉士夫の口利きで開店された。時として、その筋の人がちょっとしたオイタをしようとしても、そちらの筋から手が入り、事無きを得たという。

私がこの本を読んで思い出したのは、ロバート・ホワイティングの「東京アンダーグラウンド」であった。あの本は、「ニコラス・ピザ」を舞台に東京のアンダーグラウンドの戦後史を描いたものだったが、こちらはナイトクラブを舞台にしたもので、テーマはほぼ同じだからだ。と思ったら、あとがきにやはりこの本が登場した。ホワイティングよりもすごいものが書けるぞ、と編集者が作者に持ちかけたのが執筆のきっかけだという。確かに、現場を知る者が書いたこの本は歴史の一側面を明らかに浮かび上がらせる。

と同時に、なんともやりきれない思いになる私である。結局のところ、日本という社会は、表舞台である議会政治や法治国家としてのシステムよりは、裏舞台である、こういう場での人間関係、駆け引きによって動かされて来たのだな、とわかってしまうからである。実際、ロッキード事件のピーナッツの受け渡しの立役者、コーチャン氏もクラッター氏も中曽根氏も常連だったと、しらっと書かれている。また、インドネシアの賠償問題の解決は、デヴィ夫人をスカルノに引きあわせたことなしにはあり得なかった、などと書かれると、なんとも、まあ・・そうなんでしょうけれど、それが粋な男の社交界だと無邪気に喜んでいていいものかどうか、私にはよく分からない。

諸岡氏は、今でも自分が年賀状をやり取りしている人のリストをずらずらっと書き並べ、このような方々との交流を持たせていただくことの光栄に身が引き締まる思いだと書いている。

と、ともに、もう、大人と言えるような、己に誇りを持たない人間ばかりになってしまった日本に、あのような大人の社交場は二度とできないだろうといっている。庶民の何ヶ月分もの給料にあたる料金を払って、きれいなホステスと豪華なショーを楽しんで、政治を片手で動かすような大人なら、いなくてもいいかも・・と私は思ったりもするのだけれど。

2011/8/1