天路の旅人

天路の旅人

2023年4月23日

79 沢木耕太郎 新潮社

「飛び立つ季節」以来の沢木耕太郎である。息子が未就園児だったころ、当時住んでいた千葉県の片田舎の役場出張所の二階、小さな図書貸し出しコーナーで「深夜特急」を読んだのが沢木耕太郎との出会いである。激務の夫、小さな息子を抱えて毎日息がつまるような生活をしていた私にとって、路線バスだけで世界を旅する彼の話はまるで別世界のようであった。どこかでこうやって旅をしている人がいる、ということが、毎日同じ場所で、小さな人とばかり過ごす私には夢のように素晴らしいことに思えた。

時は経ち、私もときに世界を旅するようになった。それは、例えば沢木耕太郎や椎名誠、蔵前仁一、高野秀行といった人たち背中を押され、支えられてのことなのかもしれない。彼らほどしっかりした意思があるわけでもないが、見たことのない景色を見、出会ったことのない人に出会い、食べたことのないものを食べる経験が、どれほど人生を豊かにするかを、私は彼らから知ったと思う。

この本は、西川一三という男の物語である。彼は、第二次大戦中、敵国である中国の奥深くまで潜入したスパイであった。ラマ教と呼ばれるチベット仏教の蒙古人巡礼僧に成りすまして内蒙古から中国の寧夏省を超え、青海省に踏み込んだ。終戦を知った後もそのままチベットからインドにまで足を延ばしている。そして1950年、インドに逮捕され、日本に帰還した。その間8年間を蒙古人「ロブサン・サンボー」として生き続けた。

西川は帰国後数年をかけて「秘境西域八年の潜航行」という本を書き上げた後は、盛岡の化粧品店の店主として静かに生きてきた。沢木耕太郎は、彼の存在を知り、一度話を聞いてみたいと連絡を取った。断られるかと思ったが、あっさり承諾され、以降、毎月のように盛岡に通い、二晩話を聞くようになった。淡々とした彼の話は「秘境西域八年の潜航行」を超えるものではなく、多くを話しながらも、どこか他人事のようであり、沢木も、本人が書いた以上のものを自分がどのように書けるかつかみかねていた。そこで、一年経ったある日、しばらく聞き取りを中止することを伝えた。いずれ再会するつもりだったが、2008年、少し長い旅から帰ってきた彼が見つけたのは、西川一三の死亡記事であった。高齢ではあったが、さっそうとして力強い男であったため、まさか亡くなるとは思っていなかったのだ。かくして聞き取り調査は永遠にその機会を失われてしまった・・・。

だが、沢木はその後、年老いて今は施設にいる西川の妻と話をする機会に恵まれる。そして、そこで聞いた話を反芻するうちに、何の新しい情報もないと思っていた西川との会話の中に、いくつかの新たなヒントがある事にも気づく。そうして、いつしか沢木耕太郎としての西川の描きだし方にたどり着いていったという。彼は、コロナ禍が終われば、どうにかして沢木も西川の辿った道筋を同じように歩いてみたいと考えている。それが完了した時に初めて「天路の旅人」は一応の完結をみるはずである。

西川はスパイ、密偵としての役目を帯びていた人間である。にもかかわらず、終戦を知った後も日本に帰らず旅をつづけた。それは、人はどこでも生きられるという確信と、まだ見ぬ場所を見てみたいという強い欲求に心が突き上げられたからではないか。沢木耕太郎も、椎名誠も、蔵前仁一も、高野秀行も、そして、旅をする誰もが知っている、あの本能的な望みと喜び。それに、西川も取りつかれていたのだ。人はどこまでも自由だ。どこで死ぬのも、生きるのも。

この本を読むことで西川一三と共に難儀な旅をするという経験は、ひどく恐ろしく、疲れ、そしてわくわくするほど楽しいものであった。旅とはこういうものだ、人とはこういうものだ、生きるとは畢竟、これである、という思いに何度もかられた。

齢七十を超えた沢木耕太郎であるが、西川一三と同じ旅路をこれから歩けるものだろうか。彼ならやれるだろうとは思うが。その旅行記が出たら、絶対に読むぞ、と私は強く思った。