子どもは判ってくれない

子どもは判ってくれない

2021年7月24日

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「子どもは判ってくれない」内田樹 文春文庫

 

図書館の文庫コーナーで見かけて、借りる気になった本。内田先生は好きだけど、これを借りようかと思ったのは、フランソワ・トリュフォーの映画のポスターのまねっこをした表紙がかっこよく見えたからだ。
 
いつもの内田節なのだが、初版は2003年らしい。でも、その頃から彼の主張は全然変わっていないし、とてもキレが良い。というか、この頃は、まだ基本的なことだけ言っていればよかったよなー、あれからどんどん世の中悪くなった・・・とちょっと気持ちが暗くなったりもする。
 
印象に残ったところを幾つか。
内田先生は、ハラスメントという言葉の本質について考えている。
 
「ハラスメント」というのも、おそらくほんらいは「それにきっぱりと答えることのできない種類の問いかけや要求を身近にいる人間から執拗に繰り返されることによって、生気を奪われ、深い疲労を覚えること」という事実を指していたのではないだろうか。
(中略)
 このような「ハラスメント」的呪詛の根にあるのは、「他人の生き方に影響を与えたい」という「関係への渇望」なのではないかと私は思う。
 他人に影響を与えたいという欲望そのものは、ごく自然なものだ。私はそれを咎めているのではない。
「絶句させる人」が有害なのは、たんに「相手に影響を及ぼす」からではない。影響力が及んだことの確証として、相手が自分から逃れられないように「縛り付けられた」姿を見ようと望むからである。
 
話を複雑にすることの効用について。
 
 人間は自分の理説の「正しさ」を損なうデータからは構造的に目を逸らし、組織的に失念する。そういうものなのである。それを責めても始まらない。
 だから、データの管理について中立的であろうと望むなら、決して「自説の正しさ」の証明を優先させてはならない。むしろ、「私が見落としていること」を探し出し、それによって「自説」を修正し、改良し、より汎用性の高い理説に書き換えてゆくべきなのである。
(中略)
「自分の主張は間違っている可能性もある」という前提に立つことのできる知性は、自説を無限に修正する可能性に開かれている。それは「今ここ」において付け入る隙なく「正しい」議論を展開する人よりも、将来的には高い知的達成にたどりつく可能性が高い。
 
(引用はすべて「子どもは判ってくれない」内田樹 より)
 
いろいろな意味で、耳に痛く、胸にしみる言葉である。己を顧みなければならない、と反省してしまった。

2014/11/5