敗北力

敗北力

2021年7月24日

「敗北力 Later Works」鶴見俊輔 編集グループsure

本が読めない。読んでいても、長続きしない。心が定まらない。どこかに不安があって、それが思考の邪魔をする。この恐ろしい事態に対して驚くような対応しかしない国のあり方に、ただただ絶望を感じ続けている。

何冊かの本を読もうとして頓挫した。そんな中、これだけは、最後まで読み切ることができた。私の信頼し敬愛する鶴見俊輔。彼の言葉を読むと気持ちが落ち着いてくる。大いなる絶望の中で、自分の生き方を見定め、最後まで生き通した人の言葉だからだろう。

鶴見俊輔は2011年10月に脳こうそくで倒れたあと、自分からの発信が困難になる。その後、2015年7月20日に亡くなるまでの間、自作の文章を改めて読み直し、配列し、編集して一冊の本を切り出す試みが行われている。そうやっていくつかの本が編み出された。この本は、最晩年の文章を含む23編の鶴見自選の文章に未発表詩稿五篇と自著未収録稿十二稿が収録されている。

題名の「敗北力」は、「自分が何になり得たか」を考えるところから始まる。なり得なかったもの一つ一つを確かめると、自分でやめたことに行きつく。それが自分の根拠を作った、という。日本は、日露戦争までは、とにかく負けないだけのものすごい計画を作って、そのとおりにやった。だけど、その負けなかったことを、勝ったということにしてしまった。そのすり替えのつけを、その後百年にわたって日本は払わねばならなかったし、今もその借財を返していない、と彼は指摘する。

第二次世界大戦で負けたにもかかわらず、返されなかった借財は、あの原発事故のあとも積み上がり続けている。負けないための計画を立てない、そして、負けを認めない。それが、今回のコロナの問題にも如実に現れている。その事実に私は愕然とする。

鶴見俊輔は大学を嫌う人である。

1905年以降、学校の成績が良かった人間が総理大臣になるという馬鹿らしい国。学校の成績のいい人間ってのは、考える力を代償にして成績を良くするんですから、考えない人になっちゃうんですね。

彼は、ゆっくり、あらゆる経験を通して自分の力で考え、見出すことを尊重する人間である。教師の模倣をし、正解だけを暗記する成績の良い人間は「考えない人」であるが故に、判断できない、責任を取れないことを指摘している。

ところが、事態はその上を行く。今や、成績すらよろしくない、教師の模倣すらできない、ただ血統のいいだけの人間が、知識のある人間の助言すらろくに聞かずに自分の利益だけから物事を決め、失敗や間違いを隠し、人になすりつけ、逆ギレしてごまかしている。鶴見俊輔が今生きていたら、何をどういっただろう。「世も末だ」以外のどんな言葉が出てきただろうか。

話がそれたかもしれない。大学が嫌いで、とりわけ東大が嫌いな鶴見俊輔が、上野千鶴子は評価している。彼女がオーヴァードクターだった頃から彼女を知り、当時の句集から読んでいるというから、その視野の広さには恐れいる。

大学に位置を得ると、その人はインサイダー取引の論文を書くようになる、と鶴見はいう。そうした論文にはへその緒がなく、自分自身がない、という。だが、上野千鶴子は長い教授生活を自分自身に支えられる学問で貫いた。そして、自由奔放でありながら、彼女には仲間がいた。それが彼女が道を歩く杖となったと書いている。

そこから突如、この様な文章が続く。

 私の中に以前から刷り込まれている女性への恐怖感をもって読むと、上野さんの主張にもとより反対ではない。恐怖感は覚えない。私の場合、父親への批判は、控えめながら文章にすることはできるが、母親については、自分の言うこと、書くことのすべてが、母親に対する悲鳴だ。そういうものとして自分がものを書いていることが、ごめんなさいという態度の表明なのだ。
 軍艦武蔵の沈没から生き残った少年兵、渡辺清は、沈没する武蔵の中から、何人もの同年輩の水兵が「おかあさん」と叫ぶ声をきいた、という。そのようなまっすぐな叫び声を私があげることができないのを、私は母親に対して申しわけないと思う。私は悪人だ。

 もうろくして 悪人のほこり 今いずこ

 女性学の創唱者、自分自身の視野から書き続けた上野千鶴子という人への、私の感想です。
          (引用はすべて「敗北力」鶴見俊輔 より)

「突如」と書いたが、この文章は、実は、たしかにつながっている。人が物を考える、思考する、書くという根底にあるものは何か、という根源的なことを彼は書いているのである。上野千鶴子のヒストリーを知らない以上、私は自分のことを書く、ということなのである。生まれてこの方、自分の内部にあるどうしようもないもの、それと向き合い続けることで、人は研ぎ澄まされる。自分以外の誰か、どこかにある小綺麗な正解をきれいに磨いて出すような真似が学問ではない。人の心を打つものではない。自分自身の内部にあるもの、自分の経験を貫くもの、そして、自分が諦め、負けたものからしか本物は生まれ得ない。ということを彼はこうして書くのである。

私が鶴見俊輔を好きで、敬愛し、信頼するのは、それがあるからなのだ。

2020/4/9