日本エッセイ小史

日本エッセイ小史

111 酒井順子 講談社

エッセイが好きだ。軽く読めるということもあるのだが、日常的な、実際にあったこと、それを通じて何を感じたかを教えてもらうのが好きなのだと思う。久しぶりに会った友人と「こんなことあったんだけどさ・・」とおしゃべりしあうのが好きなのと似ているような。

この本の副題は「人はなぜエッセイを書くのか」である。その回答が中にあるのかないのかは置いておくが、とにかくたくさんのエッセイが取り上げられているし、全体としての流れをつかむこともできる。そして、驚いたことに、そのかなりの量を、私はどうやら読んでいる。やっぱり、エッセイ、好きだからなあ。

古くは枕草子や方丈記から話は始まるのだが。「随想」が「エッセイ」になった転換点として伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」が挙げられているのはたいへん腑に落ちる。あれはすごいエッセイであった。私にとっては伊丹十三は映画監督でも俳優でもなく、まずはエッセイストなのである。

井上ひさしが「エッセイとは自慢話のことである」と事あるごとに評していたという記述には驚いた。少し前に、安住紳一郎がラジオ番組の中で自らのエピソードトークに際して「自慢話になりますが、よろしいですか。そもそも、エピソードトークなんてそのすべてが自慢話ですからね。古くは枕草子から、自分のエピソードを語る方々は、みんな自慢話をしてきたんですから」みたいなことを言っていて、おお、鋭いことを言うなあ、と思っていたのだが。井上ひさしが言ってたのね。なるほど、私の読書日記だって「こんな面白い本を読んだんだぜ、いいだろう」という自慢話だものな。納得だ。

各種様々なエッセイストが取り上げられ、よく読んでるなー、この人、と思うが、私の好きな宮田珠己高野秀行グレゴリ青山蔵前仁一などが登場しないのは、やや不満である。まあすべてを網羅するのは無理なのだろうが。かろうじて内澤旬子が取り上げられていたのは良かった。ナンシー関もちゃんと取り上げられていた。そうだ、彼女は素晴らしいエッセイストであった。決して忘れてはいけない。

というわけで、たいてい文学史のような本を読むと、読み落としたものをあとから拾い読むという作業が起きるのだが、この本では読み返しという作業のほうがありそうだ。そうか、私ってば、相当エッセイを読んでいたんだなあ、と改めて知った本であった。エッセイ好きの人は読むといいよ。おすすめ。

ところで、業務連絡。これから七月中旬ごろまでしばらくブログの更新が途絶えるかもしれません。中旬には戻ってきます。だから、心配しないでね。