日本辺境論

日本辺境論

2021年7月24日

「日本辺境論」 内田樹

この本が面白いとも、内田樹が面白いとも、風の噂には聞いていたけれど、読んだのは、初めて。
なるほど、面白かったのでした。

学生時代に山本新先生の「周辺文明論」を一般教養で学んで、すこぶる面白かったのに、残念、山本先生は私の在学中にお亡くなりに。
この本は、山本先生のおっしゃっていたことと、重なる部分も、広がる部分もあるものでした。

まあ、ご本人が大風呂敷、と最初に書いているし、いろいろ穴もあいてはいるのですが、基本的には、うん、その通りだ、と、今まで自分の中で考えていたこととピタピタと当てはまってくる快感が。
それにしても、私が自分の周囲のごく狭い世間の中で考えていたことが、国家レベルでも、当てはまるんだな、とそれが何より面白かったです。

どうしても私の付き合いは、子育て中及びそこから脱出しつつある母親の範囲内に限られることが多いです。
その中の多くが抱えたまま抜け出ることができない様々なトラブル、ストレスの大半は、価値を自分の外におき、人にどう評価されるかが一番の重大事になり、自分で物事を判断できないことに原因があると感じていました。
つまり、つねに受動的な存在としての自分がいて、主体的な存在とはならない、そのことに問題があると感じていたのです。
その根本には、自分に自信が持てない、自分を好きになれない、信じられない、尊敬できない・・自尊感情が持てないことがある、と思っていたのです。

それを、私は、あるカテゴリーの中の人間・・具体的に言うと、母親、あるいは、女性という集団特有の問題であるかのように考えていました。
けれど、この辺境論に書かれているのは、まさに、それとほぼ同じような問題だった。
それが、私には発見であり、驚きであったのです。

ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値体」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその距離の意識に基づいて思考と行動が決定されている。その様な人間のことを私は本書ではこれ以後「辺境人」と呼ぼうと思います。
(「日本辺境論」内田樹 より引用)

日本人の集団による決定は「空気」による、というのは今現在の若い人達を見ても、何一つ変わっていません。
というより、さらにその傾向は強まっているとさえ感じられます。
東京裁判における幾つかのやりとりの中で、多くの被告は

「私個人としては、この問題には反対であった.が、国策がいやしくも決定せられた以上はそれに従って努力するのが尊重せらるる行き方である」

と述べています。それを、「断罪する気にはなれない」と明言する内田氏の論が、私には新鮮でした。

「大東亜戦争」を肯定する、ありとあらゆる論拠が示されるにも関わらず、強靭な思想性と明確な世界戦略に基づいて私たちは主体的に戦争を選択したと主張する人だけがいない。戦争を肯定する誰もが「私たちは戦争以外の選択肢がないところにまで追い詰められた」という受動態の構文でしか戦争について語らない。思想と戦略がまずあって、それが戦争を領導するのだと考える人がいない。ほんとうにいないのです。
(「日本辺境論」内田樹 より引用)

この指摘は、私には目から鱗でした。

「北朝鮮がミサイルを打ち込んでくるかも知れない」「中国が東シナ海のガス田を実効支配するかも知れない」そういうことにまで追い詰められたらこちらに軍事的な力がなければ話にならない。そういう被害の構文でしか「現実主義者」は軍事について語らない。日本をいつ、どうやって、どういう方法で、「追い詰める」のかを決定する権利は専一的に「あちら」にある。
(「日本辺境論」内田樹 より引用)

誤解して欲しくないのは、それが良い、悪いの問題として、この本で論じられているのではない、ということです。
そうではなくて、日本人の「辺境性」を語るための論拠として、これらのことが上げられているに過ぎないのです。
そして、内田さんは、簡単に言っちゃえば、辺境人でいいじゃないか、と言っているのです。
日本人は日本人を病んでいる。
だが、世界中のどの国だって、その国特有の病を病んでいるのであって、それはそれでいいじゃないか、と。

その論拠として、岸田秀氏が上げられているのもまた、興味深いものでした。
岸田秀氏の、一風変わった精神論に、私は若い頃、大いに影響を受けましたし、それによって、ずいぶんと助けられたとさえ感じていたので。

余りに面白かったので、夫にも進めたところ、彼の感想は、「日本人は辺境ですらいられなくなったのではないか」というものでした。
辺境人として手本にするべきものが、今まではあったけれど、今や、手本にするべき中心部分すらあやふやになっている。
たとえば、かつてはアメリカの経済が手本として存在したかもしれないけれど、今や、それもガタガタになってしまって、何を手本としていいかすら分からない・・・。

つまり、夫は夫のいる社会の中で、内田論を受け止め、私は私のいる社会の中で、同じように受け止めたのかも知れません。
「バカの壁」みたいな読み方をされているのかも知れないね、と夫は言いました。
みんな、自分以外は馬鹿だ、と思いながら読んだように。

そうかも知れない、と思います.
これを読みながら、でも、私はあんまり辺境人っぽくないな、なんてつい思ってしまいます。
そう思う辺りが、既に辺境人なのである・・・と言うのが、この本のロジックでもあります。
なんというか、蟻地獄に一度絡め取られたら、もう逃げ出せないような。

2010/4/7