日本霊性論

日本霊性論

2021年7月24日

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「日本霊性論」内田樹 釈徹宗 NHK出版新書

 

相愛大学人文学部主催による内田樹の三日間集中講義と、凱風館で行われた釈徹宗の三回連続講座を加筆修正して収録した本。二人とも、良い先生だということがよくわかる、興味深く飽きない講義内容である。この先生たちのいる大学で学べたら楽しかっただろうなあ。とはいえ、彼らは本を出し、それを読むことは誰にでもできる、と私は思い直すのである。
 
現代の教育についての議論を聞いていて強い違和感を覚えるのは、教育の受益者は「子供たち自身」であるということを当然のことのように人々が話しをしていることです。レベルの高い教育を受けると、子供たちはそれだけ「いい思い」ができる。いい学校を出て、年収と威信の高い職に就いて、レベルの高い配偶者を得て、リッチでシックな生活ができる、と。いい学校に行かないと、それがかなえられない。だから勉強しなさい。そういう話になっている。これはどう考えてもおかしい。集団を支えるだけの見識と能力を備えた「頼りになる次世代」を安定的に確保することが教育の目的です。教育の受益者は子供自身ではありません。子供たちを含む共同体全体です。だって、一定数の「頼りになる大人」が安定的に供給され続けなければ、集団は滅びてしまうからです。
                     (引用は「日本霊性論」より)
 
これは、アタリマエのことなのに、みんなが忘れていることかもしれない、と改めて思う。私は、いまや我が子に勉強しろということにためらいと疲れを感じている。それがあなたを豊かにするのよ、といくら言ったところで、別に豊かじゃなくても構いません、と言われてしまったら、ああそうですかと引き下がるしか無い。何が豊かであるかは自分で決めることだから、何も知らないという豊かさを私は享受したい、と言われたら、また、それまでである。だがしかし、あなたが勉強することが、共同体の一員としての私にとっても必要なことなのだ、という言い方ならまだ納得も行く。この納得は、私自身に向かうものではあるのだが。私にとっても、それは大事なことである、という方がよほど誠実ではないか、と思うのである。そして結局のところ、我が子にしあわせであってほしいと願うことは、それが取りも直さず、私のしあわせでもあるからだ、ということと、何となくそれはつながっていくのではないか、と思ったりもする。あ、話がそれたか?
 
 

2014/9/16