普通という異常 健常発達という病

普通という異常 健常発達という病

81 金本浩友 講談社

私は自分の家庭に生きにくさを感じて育った。というより、なんで色々なことがこんなにうまくいかないんだろう、という疑問が子供時代から常にあって、それがある種の生きにくさによるものであると大人になって気が付いた。結婚し、育った家庭を離れ、私自身も子どもを育てながら、人が育ち成長するということ、そしてその中の人間関係などを経験し、私の育った家庭はあまり「普通」ではなかったと気づいた。そして、それはじきに発達障害という概念と結びついた。今は、私の父はかなり重度のASDだったのだろうと思っている。母もおそらくかなりのADHDだとしか思えないし、姉はその両方を兼ね備えているように見える。その家族の一員たる私も健常発達であるとはやはり思えず、ADHD的、ASD的因子がかなりある。だが、その自覚は必ずしも自己否定につながるわけではない。むしろ私という人間の特徴なり個性なりが理解できた納得のほうが大きくて、私は別に私が嫌いではないし、だめな人間、価値のない人間だとも全く思わない。ただ、「あまり普通とはいえない私」を受け入れて、どうにかうまく乗りこなしていきたいし、そのためのスキルは必要だと考えている。人と違うということに何の引け目も感じないというところがすでに発達障害の症例のひとつであるのなら、それは結構なことじゃないかと開き直りでも何でもなく、思っている。

という前提をもとに。この本は、人数の多い「普通」の発達をする人を健常発達と呼ぶ。そして、ADHDやASDを病だと考えるのならば、いわゆる普通の人、あるいは健常発達的特性を持つ人も、見方を変えれば十分、病として捉えることが可能ではないか、という問題提起を行っている。そして、健常発達者がどうしようもなく行き詰まったときに、そこからの脱出の処方箋をノマド的なADHD的あり方に求めさえしている。

その問題提起自体には大いに共感する。だが、本書はどんどん筆者の思いの強さが暴走し、彼の内部の思い込みが丁寧な説明なしにあふれ出して、後半は非常に読みにくいものになってしまっている。そして、その論自体が、なんというか、理解を得るよりはまず言いたいことを表現したいという強い思いの表れのように思えて、ああ、そういうとこ、非常にわかっちゃうけど、受け入れてもらうのは大変なのよねー、と思わずにはいられない。そうだ、つまり筆者も私も似たようなところにおちいっているのだろうなあ、という共感だけがぽっかりと浮かび上がるような読後感なのである。

興味深い内容ではあった。だが、後半をもっと整理してくれたら、もう少し理解しやすかったのではないかなあ。