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「母の遺産 新聞小説」水村美苗 中央公論新社
長かったなあ。思えば昨年、関西の図書館に予約申し込みをして。引っ越しまでに順番が回ってこなかったので、東京で予約しなおして。何人も何人もの手を経て、ようやく回ってきた。
夫婦関係、老親介護、女性の仕事、親戚関係。どれも私の年代の女たちにとって重大で頭の痛い問題ばかり。それを、金色夜叉とボヴァリー夫人をモチーフに描き出している。
分厚い本なのに、読み始めたら、一気だ。うまいなあ。新聞小説にありがちな停滞感もない。連載後に手を入れたのかしら。
高校時代にボヴァリー夫人は読んだけれど、あれは読んだとは言わなかったのだなあ、と改めて思う。彼女の苦しみとやけっぱちな行動を、高校生の私はひとつも理解していなかったな、と今だからわかる。
最終的に、人は老いに向い、死に向かう。そこまでの道のりを、どう歩いていくかが人生だ。
印象に残った一節を。
あの母が母でなかったらどうだっただろう。
老いて重荷になってきた時、その母親の死を願わずにいられる娘は幸福である。どんなに良い母親をもとうと、数多くの娘には、その母親の死を願う瞬間ぐらいは訪れるのではないか。それも、母親が老いれば老いるほど、そのような瞬間は頻繁に訪れるのではないか。しかも女たちが、年ごとに、あたかも妖怪のように長生きするようになった日本である。姑はもちろん、自分の母親の死を願う娘が増えていて不思議はない。今日本の都会や田舎で、疲労でどす黒くなった顔を晒しつつ、母親の死をひっそりと願いながら生きる娘たちの姿が目に浮かぶ。しかも娘はたんに母親から自由になりたいのではない。老いの酷たらしさを近くで目にする苦痛ー自分のこれからの姿を鼻先につきつけられる精神的な苦痛からも自由になりたいのではないか。
若いころには抽象的にしかわからなかった「老い」が、頭脳や五体を襲うだけでなく、臭覚、視覚、聴覚、味覚触覚すべてを襲うのがまざまざと見える。あれに向かって生きていくだけの人生なのか。
(引用は「母の遺産」水村美苗 より)
2014/3/25