思い出袋

思い出袋

2021年7月24日

157

「思い出袋」鶴見俊輔 岩波書店

著者八十歳から七年に渡り綴った「図書」連載「一月一話」に描き下ろし終章をくわえたもの。

鶴見俊輔はすごい。読むたびに胸打たれる。

私は、このブログの中に、その本でとても感心したことや、考える切っ掛けとなった一節を引用することが多い。その一文を契機として同じ本を読んでくれる人がいるといいな、という思いもある。この本で、そんな風に引用したい部分に栞をはさもうとすると、栞がいくつあっても足りない。そして、結局のところ、全文引用するしかないような気持ちになる。

なぜそんなに心に響くのか考えてみる。この人は、物事を本質からしか見ない。その周囲にまとわりつくいろいろな余計なもの、慣習やついてまわる意味付けや雑念などに全く影響されない。それは見事なほどだ。だれかの発した言葉を、どんな学歴、社会的な地位、評価にも左右されず、ただただ一人の人間の言葉として受け止め、深く考え、自分の中だけで吟味し、理解する。彼にとって、あらゆる人は、ただただ平等である。

そんな彼が、金子ふみ子をこの本の中で評価していると知って、読もうと思った。読んでよかった。

彼は、ジョン万次郎と金子ふみ子を並べて論じている。ジョン万次郎は無学のまま無人島に流され、アメリカの捕鯨船に助けられた。船長はこの少年が思慮深いことを知って自分の家に連れ帰った。この船長ホイットフィールドは、自分の属している教会に万次郎を連れて行くと有色人種だからと受けいれられない。そこでいくつもの教会を訪ね歩き、最後に受け入れてくれる教会を見つけて家族で会員になった。その経験は万次郎に強い印象を与えた。後年、万次郎は船長に「尊敬する友よ」と呼びかけている。ひざまずいて感謝するのが船長の心にそぐわないと知っていたからだ。平等という理念を、万次郎は経験によって身につけた。アメリカで彼は学校に入り、同時に桶屋の修行をして、自分の稼ぎでボートを買い、日本の近くでおろしてもらって故国に帰ることを自分で心に決めた。このような「個人」が、あの時代の日本にはすでにいた。

金子ふみ子は小学校にもろくに行っていないが、今この時は永遠の中に保たれるという直感を獄中で述べている。これは、キエルケゴールの説いた永遠の粒子としての時間という直感と響き合う。

小学校から中学校へと、自分の先生が唯一の正しい答えをもつと信じて、先生の心の中にある唯一の正しい答えを念写する方法に習熟する人は、優等生として絶えざる転向の常習犯となり、自分がそうであることを不思議と思わない。
 万次郎と金子ふみ子とは、この学校の階梯を登ることなく、自分の経験を吟味することから、それぞれの道をひらいた。
                
これは、教育や学問というものの本質をついた文であると思う。彼は、こんなふうにも書いている。

自分で定義をするとき、その定義どおりに言葉を使ってみて、不都合が生じたら直す。自分の定義でとらえることができないとき、経験が定義のふちをあふれそうになる。あふれてもいいではないか。そのときの手ごたえ、そのはずみを得て、考えがのびてゆく。明治以後の日本の学問には、そういうところがあまりなかった。
 試験のための学習は、そういうはずみをつけない。ヨーロッパの学問の定義ではこういう、というのを受けて、その適用をこころみ、その定義にすっぽりはまる快感がはずみとなって学習がすすむ。すっぽりはまらないところに注目して、そこから考えてゆくというふうにはならない。

1941年、ハーヴァード大学留学中の鶴見のところへ日本への引き上げをすすめる手紙が在米日本大使館からきた。ハーヴァード大学部生唯一の日本人だった彼は、後見人のアーサー・シュレジンガーと、この大学の講師となっていた都留重人と相談した。日米戦争になる見通しについて、シュレジンガーは、

百年前、アメリカの黒船に初めて出会った日本の指導者は、鎖国つづきで国外の情勢を知らずにとまどったにちがいないが、小さい貧乏な国を指導して大国に押し負けず、今日のひとつの国というところまで舵を取ってきた。そのような賢明な指導者が今、負けるとわかっている米国との戦争に自分たちの国をひっぱってゆくはずがない

と述べた。都留重人も、政治が水面下で交渉を重ね、まさか開戦には至らないだろうと予想を述べた。だが、鶴見は、日米開戦になると予想した。それは、彼が偶然、現役の政治家の息子として育った体験から得た直感だったという。

そこで彼は、日本に帰るという選択をした。日本政府の決断に従わなければと思ったからではない。同じ土地、同じ風景の中で暮らしてきた家族、友達こそが「くに」であり、今、その政府に反対であろうと、その「くに」が自分のものであることに変わりはない。この国家は正しくもないし、必ず負ける。負けが「くに」を踏みにじる時、自分も負ける側にいたい、と思ったからだという。

このエピソードを、彼はこの本の中で、幾度も繰り返している。それが、彼にとって非常に重要な人生の岐路だったからである。私も何度も同じエピソードに出会いながら、その度にこの事実の意味合いを考えた。そして、日本語さえおぼつかなくなっていた英語話者の彼が、日本語の「くに」へ帰還を選んだことの意味を、そして、その後一度たりともアメリカの土を踏まなかったことを、切実な、胸に切り込むような思いで受け止めるにいたった。

この本について、そして、鶴見俊輔について、何を言ったところで十分に伝わるものではない。読んで欲しい、と思うばかりである。

                (引用はすべて「思い出袋」鶴見俊輔より)

2019/12/26