現代人の祈り

現代人の祈り

2021年7月24日

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「現代人の祈り 呪いと祝い 釈徹宗 内田樹 名越康文 サンガ

皆様、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

元旦は自宅で過ごし、二日からは実家に三日間、帰っておりました。新幹線の中で読もうと三冊用意したら、行きに二冊読みきってしまって、これはいかん、と帰りの東京駅で一冊購入。ところが、車内で爆睡して、ほとんど読めずじまい。あーあー、買うんじゃなかった。というわけで。

行きの新幹線車内で読んだのが、この本。宗教者と、現代思想学者と、精神科医による対談です。これが、なかなか興味深いものでした。

私は2ちゃんねるという場所にはほぼ出入りしたことがないのだけれど、主婦の集まる掲示板や、最近はご無沙汰ながら、育児掲示板などには、わりと頻繁に参加したことがあります。それから、Z会の、今はなき「パルティオZ」というSNSにも参加していました。そういう場所で独特の空気や、時に感じる強い違和感が、ここに明快に分析されていて、至極納得がいったのでした。

 どうして、ネット上の言論には「人を説得する」というモメントがないのかなど、いつも不思議に思っていたんですけれど、考えてみたら当たり前で、説得する必要がないからなんです。「私は正しい。なぜならば私は正しいからだ」という言語反復のようなことしか書かれていないんだけれど、それは気が狂っているわけじゃなくて、匿名で、仮面をかぶって発信した瞬間に、ある種の集団的意思を代表しているという「錯覚」を、書いている本人も、読んでいる人たちも感じ取ってしまう。
(中略)
匿名で発信することの一番怖いところは、自分の顔を隠すことによって、だれがしゃべっているかわからないから、無責任な発言をするようになるっていうことではないんです。もちろん、それも問題だけれど、もっと危険なのは、固有名を隠し、顔を隠したときに、その仮面が一気に公共性の仮象をまとい、あたかも数万人、何十万人の総意を代表しているかのように語りだすことです。そして、本当に不思議なことなんですけれど、「数十万人の総意を代表して語っている」かのような語り口で語られる言葉というのは、個人が固有名において、自分の生活をかけて語ることのできる言葉の限界を超えてしまう。その過激さにおいても、攻撃性においても、理不尽さにおいても。そのような言葉は個人によっては引き受けられない。もちろん発言者も引き受ける気なんかない。その気があれば、固有名で発言しますから。
でも、「個人によって引き受けられない言葉」にはやっぱり固有のパワーがあるんですよ。そして、個人としては弱い人たち、権力も、財貨も、威信も、文化資本も、自分には不足していると思っている人たち、自分はもっと尊敬され、潤沢な資産に恵まれ、社会的威信を享受していてよいはずなのに、そうなっていないという不充足感に苦しんでいる人たちは、この「匿名で発言することによって受け取れるパワー」に魅せられてしまう。

(「現代人の祈り」第一章 呪いと祈り 内田樹☓釈徹宗 より 引用)

長い引用になってしまったけれど。自分はもっと尊敬されてしかるべきだ、と考えている人は、本当にこの世の中には多い、と私も思います。尊敬に値する何ものかを自分が持っているかどうか、が問題なのではなく、人に尊敬されることで、自分の価値が自動的に上がると考えているようなところがありますね。

しかし、その一方で、どんな人でもそれぞれに尊敬されるべき何ものかを持っているのではないかという仮説もあるわけでして。たぶん、その仮説には、一抹の真理が含まれているだろう、と私は思ってもいるのだけれど。であるのなら、なおさらのこと、その何ものかを磨く努力は誰にも求められるだろう、とも思うのです。

なんてことを書いているうちに、話はどんどんずれてしまいそうでちょっと困っているのだけれど、というのもね。このお正月に、大学受験に向けて、国語力を上げるにはどうしたら良いか、というような相談を甥っ子から受けたのですよ。そこで答えたのは、というか、答えようとしてその場で考えたことは、人を説得する、納得させるための言論の構成の話だったわけです。

文章読解がどうも駄目だ、という彼に対して、つまり、その文章は何を伝えるために存在しているのか考えてみよう、と言ったのですね。筆者は、何か伝えたいことがあるから文章を書くわけで、その伝えたいこと、というのは大概の場合、割にシンプルな形で提示されている。あとは、そのもっとも伝えたいことに、どれだけ説得力をあたえるか、そのために事例を提示したり、言い換えてみたり、あの手この手を使ってくる。しかし、それはあくまでも、説得のための手段であって、であるからこそ、そういう手段は実に人目をひくようなキャッチイなものでありがちなのだけれど、もっとも伝えたいこと自体は、むしろシンプルなものである場合が多いんだよね、とか、そんなことを話していたんです。

あ、やっぱりずれちゃった。しかし、私が思ったことは、つまり、人を説得するためのたくさんの努力というものが、表現を高め、思考を深め、また、自分の言質に対する責任を自覚させていくんじゃないかということなんですね。2ちゃんねるとか、そういうところで、あたかも自分に何十万人もが同意しているかのような幻想を持って結論部分だけを書き連ねる人には、そういう作業が決定的に欠けているんだろうなあ、と、まあ、そんなことを、この本を読んだばっかりだったので、考えたのです。

その他にも、顔を見ればその人がわかる、みたいな、一見乱暴な話が出てきたり、刺激的っぽくありながら、それなりに説得力のある対談で、私はとても楽しめたのでありました。

2012/1/5