田中正造翁日記抄

田中正造翁日記抄

2023年8月30日

143 田中正造 作 鈴木次郎 編集 金子庸三 発行 藍企画

間もなく90歳になろうとする母が一人暮らしをしている。隣県に住む姉が週に一回日帰りで、新幹線の距離に住む私は月に一回、二泊で様子を見に行っている。滞在中に少しずつ家を整理している。

五年前に亡くなった父の遺品がまだたくさん残っている。今回は父の書棚を整理した。敬虔なクリスチャンであった父にはたくさんのキリスト教関係の蔵書がある。それらを整理して、教会の牧師に必要なものを引き取ってもらうつもりである。多数の聖書解説書や祈り、信仰生活に関わる本に紛れて見つけたのがこの小冊子だ。以前「田中正造と足尾鉱毒事件を歩く」を読んで以来、田中正造には興味があったので、もらって帰ってきた。

どうやらこの本は、田中正造の手記から昭和13年に鈴木二郎氏が抜粋編集した「田中正造日記抄」が元になっているらしい。この本の発行人である金子庸三氏は、田中正造とキリスト教との関係を調査中に、佐野の図書館で満江巌氏作「田中正造」を見つけた。その満江氏が、田中正造について足利教会で講演を行ったときに手にしていたのが、鈴木二郎編集「田中正造日記抄」である。金子氏はすでに絶版になっているその鈴木二郎版「田中正造日記抄」を借り受けてコピーを取った。が、多くの人に読んでもらいたいと思うに至り、どうせならばと再版することにした。岩波書店「田中正造全集」と照らし合わせ、原文を尊重しつつ編集を行ったが、ぜひ収録したいと思った言葉をいくつか増やしたという。そんないきさつでこの小冊子が世に出されたのが1991年のことだったようだ。父がどのようないきさつでこれを入手したかは定かではない。が、冊子の中ごろには「鈴木」姓の名刺が一枚挟まれていた。1991年当時、父が籍を置いていた会社は海辺に大きなレクリエーション施設を開発していた。名刺は、その近隣の漁業協同組合の組合長のものである。あとは単なる私の想像であるが、この鈴木氏が、小冊子の元本の編集者、鈴木二郎氏の血縁関係者か何かで、その縁でもらい受けたのではなかろうか。冊子は書棚に収められ、すっかり古びていたが、ページを開いた形跡はなく、最初に開いたのは私であるようだった。

不思議な縁で手に入った本である。内容は、まさしく田中正造の晩年の日記、覚書の類であったが、読むほどに彼の高潔な人柄は明らかであった。誰に見せるものでもなく、自分自身のためにだけ書いた書であるからこそ、田中正造という人格がくっきりと浮かび上がっていた。あの時代にこのような人がいたということは、奇跡のようである。

書を読まんとするものは先野に出で草を摘むべし。(明治41年8月27日)

鳥獣子を養へ、長ずれば干渉せず。人は此点において鳥獣に劣るなり。(明治41年10月18日)

人に悪人なし。しらずして悪事をなすのみ。(明治42年1月11日)

男子、混沌の社会に処し、今を救ひ未来を救う事の難さ、到底一世に成功を期すべからず。只だ労は自らこれに安んじ、功は後世に譲るべし。之を真の謙遜と云ふなり。(明治42年7月6日)

余は無学なり。
天地を師とす。(明治44年9月24日)

      (引用は「田中正造日記抄」より)

父がこれを読んでいたらねえ、とちょっと思わんでもない。長ずれば子を干渉するなよ、と私などいつも思っていたものだ。などと俗人ならではの感想を持つ私である。田中正造氏は晩年はキリスト教に帰依したのか、それとも学んでいただけなのかはこの本からは定かではない。が、愛という概念に深く傾倒していたことは感じられる。命まで投げ出して足尾の農民たちを守ろうとした人である。その精神の根底に触れた思いである。貴重な資料に出会えたことは、父に感謝せずばなるまい。彼は読んでいなかったみたいだけどね。