空から見ている人

 子どものころ、私には空から私を見ている人がいた。べつに何をするわけでもないのだけれど、空の上の方から、私をじっと見ている。いつごろからいたのか はよくわからないけれど、高校時代に駅の改札を抜ける時、その人がじっと私を見ている、と感じたことを明白に覚えている。

 私は学校が嫌いで、毎日いやいや通っていた。この制服を着ている私をあの人は見ている、と私は思った。こんなに憂鬱な気分でいることもきっと知ってい る。私は時として、自分自身も空の上にふわりと浮かんで、上から自分を見ているような気にもなった。つらいことがあった時は、ふわりと心だけが空に浮かん で、その人と一緒に私の縮こまった身体を上から見下ろしているように感じた。

 小さい頃に、神様の存在を教えこまれていたので、もしかしたら、その人は、以前は神様だったのかもしれない。私は成長に従って、教会に通うのをやめ、神 様を信じなくなった。神様というのは、いつでも、どこでも、何をしていても、あなたを見ていて、あなたが正しいことをしているかどうかを見張っている、と 私は教えられていた。それは、とても窮屈で恐ろしいことだった。私は自分が正しい人でもいい子でもないと思っていたので、神様からは逃げ出すことにしたの だった。

 中学生の頃、私の母は病気になって入院した。高校生になる頃まで、母は入退院を繰り返した。父は仕事で忙しかったし、姉には相談できることがあまりな かったから、私は一人でいろいろなことを何とかしなければならなかった。空の上の人が、私をじっと見守るようになったのは、その頃のことかもしれない。

 小さい子どもはよく「お母さん、見てて」という。水たまりをぴょん、と飛び越える、ブランコでゆらゆらする、砂場で砂をすくう。どうということもない行 動を、子どもはひたすら見ていて欲しがる。ああ、出来たね、とか、うまいね、とか言ってやることもできるが、彼らが最も求めているのは、とにかく「見てい る」ことなのだ、と私は感じた。

 私は、空の上の人に、見ていてほしかったのかもしれない。

 いつごろまで空の上の人がいたのだろう。結婚して、子どもが生まれた頃には、もう、その人はいなかったような気がする。私は、目の前の現実に手一杯だったし、自分が子どもを見ることに忙しかった。誰かに見てもらっている暇などなかったのかもしれない。

 それから、二十年以上時が経った。私は、ふと、空の上の人が私を見ていることに気づいたのだ。その人は、私がスポーツセンターでエアロビクスをしていた ら、上のほうから私を見ていた。汗だくで、必死になって講師の動きに合わせようとしている私を、その人は明らかに見ていたのだ。ああ、久しぶり、と私は 思った。

 私は子どもとの関係に悩む中年のおばさんになっていた。私のことを全面的に信頼し、大好きだと言ってくれる子どもはもういなくて、お互いに自分の願うこと、やりたいことが食い違い、ひどく言い争ったり、否定しあったりすることも多くなっていた。

 私は、黙って全てを承認してくれる存在を求めていたのかもしれない。空の上の人は、何も言わないで、ただただ、黙って私を見ているだけだった。見られて いる、ということが、私には本当にいくらかの、ごくわずかの支えとなっていた。わずかであっても、それは意味のあることだったのだろう。

 子どもとの蜜月の期間、子どもは私を承認してくれる存在だった。私はそれに支えられて、これでいいのだ、私には価値がある、と思い続けていられた。けれど、子どもには子どもの人生があり、成長があり、方向がある。いつまでも私とべったりでいるわけがない。

 私は子離れをせねばならないと痛感していた。それがうまく行かなくて、あれこれ悩んでもいた。そんな時、ふっと、空の上の人が戻ってきたのだ。

 そうか。私は、もう子供に寄りかかってはいけないのだな。と私は思った。

 それから、私も空の上の人のように、何も言わずに、ただただ黙って子どもを見守る人になりたい、と思った。ほんのわずか、いくらかだけの意味であったとしても、ただ、見守るというだけで、子どもを支える存在でありたい、と思った。

 空の上の人は、いつもいるわけではない。けれど、何かの拍子に、ふっと私のことを見ている、と気づかせてくれる。相変わらず何も言わないし、何もしてくれないが、ああ、なんとかなる、とそのたびに私は思う。

 そんな親に、私もなれるだろうか。

2014/7/25