紅の豚ジブリの教科書7 紅の豚

紅の豚ジブリの教科書7 紅の豚

2021年7月24日

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「ジブリの教科書7 紅の豚」スタジオジブリ 文春ジブリ文庫

 

「紅の豚」は我が家のお気に入りだ。元気が出ないとき、退屈なとき、ちょっと気が向いたとき、とってある録画を何度も再生する。たぶん、ほとんどのセリフを覚えちゃってるんじゃないかと思うほどだ。最初にみたときは映画館で、主人公がいきなり豚だったので、なんだか不思議だった。何度も見ているうちに、違和感もなくなった。そして、豚のポルコがかっこいい!と心から思えるまでになった。
 
この本は「紅の豚」について万城目学、佐藤多佳子、村上龍、大塚英志などが文章を寄せている他、プロデューサーの鈴木敏夫やスタッフの声、宮﨑駿、加藤登紀子の対談、飛行機の技術者ジャンニ・カプローニの孫からの寄稿、そして美しい背景画などが収められている。これ一冊を読むと、「紅の豚」がどういう映画だったかが、改めて浮き上がってくる。
 
印象に残った宮﨑駿の言葉を引用する。
 
「紅の豚」に出てくるのは自分を全部確立した人間だけなんです。フィオも揺るぎなく自分です。劇中の出来事を通じて大人になったとか、そういうんじゃないんです。自分がやることも、意志もはっきりしていて「私は私」なんです。フィオがポルコについて行くのは商売のためであり、自分が作った物に対する責任があるからです。ポルコが好きだからじゃないですよ。もっとも、嫌いだったら行かないでしょうけれどね(笑)。
 そういうことを明確にした映画なんです。ですから、まだふにゃふにゃの自我を抱えて、それを励ましたり何かしてくれるものがほしいというひとのためのものじゃない。そういう意味で、これは若者をまったく排除して作った映画です。”バブルの餌食”はものの数ではないと決めて作った映画だから、おじさんやおばさんの”中年の映画”なんです
(中略)
時代を生きているときに、くだらないものはくだらない、俺は俺でやるという視点を明瞭に持っているキャラクターを出したかった。大混乱や、戦争が起こったときに、この責任は全部俺にあるという視点ではなくて、俺も同じイタリア人だから責任があるというような視点ではなくて。そういうことは個人として冷厳に見て、やりたくないものはやらない。国のために倒れて犠牲になって死のうということもやらない。俺は俺、俺の魂の責任は俺が持つんだ。豚はそういう男なんです。それが、これから生きていく上で必要だなと、自分も切実に思ったから    
                (引用は「紅の豚」文春ジブリ文庫より)
 
 
この本で、高畑勲と宮﨑駿、二人の目指す方向のの違いがはっきりとわかった。最後に載せられている大塚英志の「『紅の豚』解題」は優れた評論である。

2014/10/6