羊飼いの暮らし

羊飼いの暮らし

2021年7月24日

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「羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季」
ジェイムズ・リーバンクス 早川書房

もう30年近くも昔、私たち夫婦はイギリスの湖水地方を訪れた。ウインダミアから湖を渡ってアンブルサイドへ、そして、コニストン湖へ。ナショナルトラストに守られた自然豊かなその地にはベアトリス・ポターの記念館があり、多くの日本人はピーターラビットの故郷として認識しているが、実は現地ではワーズワースのほうが有名でもある。そして、我々夫婦や一部の児童文学好きにとっては、そこはアーサー・ランサムの物語の聖地なのである。

この本は、その湖水地方で羊飼いとして暮らしているジェイムズ・リーバンクスによって書かれた。彼はいにしえからの伝統を守る羊飼いであるが、オックスフォード大学を卒業し、ユネスコの観光アドバイザーの仕事にも携わっている。

子供の頃から湖水地方に根ざした暮らしをしてきた彼にとって、都会に住みながら、たまにこの地を訪れてその美しさだけを堪能するだけの人びとの「湖水地方観」はまるで違っている。ランサムのように限られた期間、この地を堪能する人びとは、どちらかと言うと批判的な目から書かれている。その一方で、この地に根ざし、羊を飼い、畑を作り、最後には土地をナショナル・トラストとして守り通したポターは大いなる敬意を評されている。

ポターの作品を読んだ時、その底流に流れる、冷酷さにも似た厳しさに驚いたものだが、この本を読んで合点がいった。自然の厳しさと冷酷さ、それと戦い、折り合いをつけながら生きる人びとの美しさ、強さが具体的な形を持って立ち上がり、私を圧倒したからだ。ポターの遺言書はその著作については殆ど触れられず、農場や日々の運営、借地人への配慮や牧畜の将来について延々と綴られていたという。彼女がナショナルトラストに残してくれた財産のおかげで、あの地は今も私たちが訪れたときとほぼ同じ形を保っているに違いない。それは素晴らしいことだ。

勉強なんて意味がない、羊を立派に飼うことこそが人生の意味であると感じていた作者がオックスフォードに行った経緯もまたじつに興味深い。文字をまともに書くことすら苦手だった彼の奥底に眠る賢さ、叡智を認め汲み上げた大学の入試制度というものにも感心する。そして学問を積んだ彼が改めて価値あるものとして羊飼いの世界に戻ってきたことに、大いなる意義を感じる。

羊飼いの一年。豊かな自然の中で、時に厳しく、時に楽しく、遠い遠い昔から受け継がれてきた方法で紡がれる日々。便利で刺激に満ちた都会とは全く違った時間が流れる世界。それがいきいきと描かれていた。

遠い昔訪れて美しく楽しかった湖水地方を、もう一度違った目で見ることができたように思う。そして、ポターをもう一度読んでみたいとも思う。

2017/5/10