東海村臨界事故 被曝治療83日間の記録

東海村臨界事故 被曝治療83日間の記録

2021年7月24日

165
「東海村臨界事故 被曝治療83日間」
NHK取材班 岩波書店

Z会ブログ「国語力検定」で教えていただいた本。貴重な本の存在を教えてくださって、ありがとうございました。

1999年9月30日に起きたJCOの臨界事故で被曝した大内久さんの、被曝から亡くなられるまでの治療の記録。NHKスペシャルの番組を書籍化。

読むのがつらい本だった。けれど、読まなければならないと思った。どこかで遠い記憶としか残っていなかったこの事故が、震災を機に、また大きな重みをもって近づいてきた。あの時、私たちはもっとあの事故から学ばねばならなかったのだと思う。この本も、もっと早く読むべきだったのだ、もっと多くの人が。

大量被曝(最終的には20シーベルト前後とされる)を受けた大内さんが東大病院に運ばれた時、口調はしっかりし、最も強く被曝を受けたはずの右腕も、強く日焼けした程度の赤みしかなかった。この腕が、その後どうなっていったのか、写真が載っている。その写真だけで、私達は多くのことを知るだろう。

とてもしっかりして、明るい口調で話し、決して感情的にもならず、絶望を口にしない大内さんを見て、医療者たちは、命を救えるのではないか、とみな思ったという。けれど、放射線は体を内側から壊していった。

染色体が破壊されたため、体は設計図を失ったのだ。人が生きている限り、再生され続ける細胞が、新しく作られなくなっていく。健康な皮膚は、徐々に剥がれ落ち、内臓の粘膜も失われていく・・・。

医療者たちは、自分たちが負け戦であることを知りながら、できる限りの努力を続けた。けれど、それは葛藤との戦いでもあった。本人と家族が、最期まで希望を失わず、明るく前を向いていることに励まされた、という。けれど、それはどんなにつらいことだったのだろう。

大内さんは、一度だけ「俺はモルモットじゃない」といったという。あらゆる治療が行われ、試みられたけれど、それは彼を助けはしなかった。そして、もしかしたら、苦痛を更に大きくし、長引かせるだけのものだったのかもしれない。医学や治療は、一体何のために行われるのか。その問題にも、医療者たちは突き当たり続けていたのだ。そして、それへの答えは、今もまだ出ていない。

遺体解剖の様子の記述がある。とてもつらい部分だが、引用する。

 いままでに見たことのない臓器の変化が眼前に現れた。
腸はふくらんで大蛇がのたうちまわっているように見えた。胃には二〇四〇グラム、腸には二六八〇グラムの血液がたまっていた。胃腸が動いていないことは明らかだった。
また、体の粘膜という粘膜が失われていた。腸などの消化管粘膜のみならず、気管の粘膜もなくなっていた。
骨髄にあるはずの造血幹細胞もほとんど見あたらなかった。細胞の分裂がさかんなところは放射線に対する感受性が高い、つまり障害を受けやすいことが知られている。粘膜や骨髄などこうした組織は、全て大きく障害を受けていた。
三澤の最も驚いたのが、筋肉の細胞だった。通常は放射線の影響をもっとも受けにくいとされている細胞である。しかし、大内の筋肉の細胞は繊維がほとんど失われ、細胞膜しか残っていなかった。

しかし、心臓の筋肉だけは、放射線障害を免れてきれいに残っていたという。解剖を担当した三澤医師は、それを見て、こんな感想を述べている。

一つ鮮やかに残っていた心臓からは「生きつづけたい」という大内さんのメッセージを聞いた気がしました。心臓は、大内さんの「生きたい」という意志のおかげで、放射線による変化を受けずに動きつづけてこられたのではないかという気さえしました。
もう一つ、大内さんが訴えていたような気がしたことがあります。
それは放射線が目に見えない、匂いもない、普段、多くの人が危険だとは実感していないということです。そういうもののために、自分はこんなになっちゃったよ、なんでこんなに変わらなければならないの、若いのになぜ死んでいかなければならないの、みんなに考えてほしいよ。
心臓を見ながら、大内さんがそう訴えているとしか思えませんでした。

(引用はすべて「被曝治療83日間の記録」NHK取材班 より)

大内さんの死は、治療に携わったたくさんの医療者たちに、大きなメッセージを与えた。それを取材したスタッフも、そこから作られた番組も、そして、この本も。

けれど、私たちは、原子力というものの恐ろしさを、それでも本当に理解はしなかったのだ。今だって、していないのかもしれない。私たちは、こんなにもたくさんの教訓を重ねて生きている。であるのなら、こんな悲しい事が二度と怒らないためにどうしたら良いか、もう一度真剣に考えなければならないと思う。

2011/12/19