詩と死をむすぶもの

詩と死をむすぶもの

2021年7月24日

「詩と死をむすぶもの 詩人と医師の往復書簡」
谷川俊太郎 徳永進 朝日新聞出版 15

「野の花診療所」を鳥取に開設し、ホスピス医療に関わっている徳永進氏と詩人の谷川俊太郎氏の往復書簡。徳永氏の書いたものを読むのは初めてだったけれど、深い洞察と明るいユーモアの同居する素晴らしい文章だった。

徳永氏の文は、彼自身の思いや谷川氏への問いかけなどの手紙と、彼の体験した臨床レポートから成っている。谷川氏の方は、手紙への返事や、臨床レポートから感じたこと、そして最後には詩がおさめられている。深い言葉のやりとりの最後に詩を置かれて、改めて谷川さんの詩のすばらしさを知る。詩の言葉は、現実の具体的な物事を描いているわけではないのに、その場その場の人の気持ちや思い、そして空気が、おさまるところへ静かに落ち着いていくのを助けるような力がある。

このお二人は、故河合隼雄氏ともそれぞれに交流があって、その思い出話を語り合ってもいる。徳永氏は、初孫を得たときに、「長さ64㎝、重さ7.5㎏の物体」の持つ力に感動して、そこから、河合氏を思い出す。

生後6か月の赤んぼが畳の上の布団の上のタオルケットの上で眠っている、というただそれだけですが、部屋の空気が変わる。家の空気も。寝姿を見て、寝息を聞いている、ただそれだけですが、周りの人の心がおだやかになって、自然に体が横になり、安らかな眠気が生まれていく。
(中略)
河合さんがクライエントの前で「はー」とか「へー」とか「ふー」とか言ってただ座っている。クライエントは自分でああでもない、こうでもないと語り始め、途中でいや、ああかも知れず、こうかも知れずと語り続け、そうして自分で解決の道を見つけていき、「治りました」と言ってくれるのを〈自己治癒力〉と表現されたのを覚えています。その後はその言葉が、あちこちで広がりましたが。でもそこでちょっと考えんだけど、そのクライエントは自分の部屋で1人でしゃべっていても治らなかったかも知れない。河合さんがそこにいて、「はー」とか「ふー」とか言って汗かいていることが大きな力だっただろうと思いますね。またもっと考えさせられたのは、河合さんが自己治癒力を発揮して治っていった若いその人に対して「敬意を覚えますね」と語っておられるところでした。

これに対して、谷川さんは、次のように応えている。

何かがそこにある、誰かがそこにいるというのは凄いことですね。どんなに言葉を重ねても、ひとつの物がそこに在るということの不思議を表現することはできない。(中略)一対一でなら相手に敬意を(ときには敵意を)抱けますが、無名の多数を相手にするとき、敬意も敵意も感情のリアリティを失って一般化され、抽象化され、時にはヒステリカルに肥大化します。それが戦争にまで進むことだってある。マスメディアを通して世界を感じ取っていると、だんだん現実のプロポーションが狂ってきますね。ほんとは目の前にいる一人としか関われないし、その一人が一番大切なはずなのに、つい自分の背丈を超えて人間一般を相手にできるような気分になってくる。世界は凹凸の泥道のはずなのに、なめらかなハイウェイみたいに思えてくる。

河合さんという、二度と得難き素晴らしい人を挟んで、二人はとても大事なことを語っていると私は思う。目の前の一人。その人への敬意。何も出来ないかも知れないけれど、そこにいる、そのことが持つ力。

人と人との関わりとはそういうものだと思うし、人への敬意はすべての始まりだと思う。どんなに凄いことを言っても、あるいは、やったとしても、目の前の一人の人への敬意を払うことができなかったら、それは結局は力を失うのではないかと、私は思う。この頃、特に思う。

谷川さんの詩は素晴らしい。ここに引用したいと思うけれど、著作権侵害だものね。ぜひ、この本を手にとって、読んで欲しい。

2011/4/18