長いお別れ

長いお別れ

2021年7月24日

139

「長いお別れ」中島京子 文藝春秋

 

若いとはなんと傲慢なことだろう、とこのごろ思う。別に責めてるわけじゃない。ただ、若者は、人は老いるということ、いつか死ぬということを知識として知っているだけで、遠い他人事、自分とは無関係のことのように感じているのだなあと思う。自分もそうだったし。
 
この歳になると老いも死もすぐそこにいて、今にも絡め取られそうな実態を持っている。そして、眼前にはその中にどっぷりと浸かってぼんやりと過ごしている生きた見本がいたりもする。人生なんて儚いもんだとか、夢の如くだなんて文言が絵空事じゃなく実感としてわかってくる。
 
この本は、長いこと教員生活を送ってきた老人が認知症を患い、徐々にいろいろなものを失いながら過ごしていく年月を、周囲の様子を交えながら描いている。日常に少しずつ不自由が生じ、わからなくなり、それに周囲が気づき、戸惑い、受け入れ、対応しながら、それでも当たり前の日々が過ぎていく。
 
先生と呼ばれると自分だと気がつく。知見がおかしくなっても、難解な漢字は読める。デイサービスを学校だと思い込み、スタッフは教え子となる。頭の中に残されたものが生活を支えていく。
 
この物語の救いは「先生」の妻である。のんきで自分勝手ではあるけれど、ごく自然に暖かく夫を支えている。生活するたくましさ、現実への受容力が素晴らしい。もしかしたら、この世は、多くのこのような人によってなんとか回っているのではないかとさえ思える。だが、誰もがこうであれるとは限らない。こうあれとも思えない。
 
先日、認知症になった母を亡くした友人と会ってしみじみと話した。たぶん、人間の記憶はミルフィーユ状に積み重ねられていて、それが徐々に崩れていく。層ごとに失なわれるのではなく、部分的な崩落があったり断層が起きたりするので、思いがけなく深く眠っていたものが掘り起こされたり、遠く無関係だったものがつながり合ったりもする。今まで心の奥底に秘められていたものが、突然あらわになったりもする。老いは人をむき出しにし、それを誰も隠してくれない。
 
私が様々な記憶を失っていくときに、いったい何が残るのだろう。何が、奥底から掘り出されるのだろう。それがどうにも不安である。

2016/12/11