1974年のサマークリスマス

2021年7月24日

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1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代」

柳沢健 集英社

 

私には懐かしく、また多くの発見がある本であった。
 
その昔、深夜ラジオが若者の文化に燦然と輝く時代があった。(今も密かにその文化は続いている。)私はやや遅れた深夜ラジオ派であった。当時、私は遠方の高校に通っていたので疲労で帰宅後はすぐに寝てしまい、夕食頃に起き出してその後勉強して深夜に寝るという生活を送っていた。寝る間際に聞いていたのが「パックインミュージック」や「オールナイトニッポン」や「セイ!ヤング」などの深夜ラジオである。深夜、たったひとりの部屋で聞くラジオは、私だけに語りかけてくれた。私の知らない面白いこと、楽しいことを密かに教えてくれた。それは大人たちが嫌がっていたような猥雑なもの(ばかり)ではなく、文化の香り高い深みのあるものだったように思う。
 
私には、高校時代からずっと親しくしている友人がいる。仲良くなったのは、彼女が私の知らない文化を持っていたからだ。彼女が教えてくれた映画、音楽、舞台、本。それまでの私の生活にはなかった新しいものを次々に見せてくれた。彼女はそれを歳の離れた大学生の兄から教えられたと言っていた。大学とは、なんと面白そうなところだろうと私は思い、後にその兄の通っていた大学に行くこととなる。
 
が、その友人が、つまりはその兄が教えてくれた文化は、実はほとんどが大学ではなく、林美雄のパックインミュージックが出どころだったのだ、と今はわかる。林美雄は、埋もれているけれど、本当はとてもいいもの、優れたものを掘り出してリスナーに紹介する見巧者であった。映画「八月の濡れた砂」「竜馬暗殺」、石川セリ、ユーミン、山崎ハコ。タモリも早い段階で紹介され、山下洋輔らとの全日本冷やし中華愛好会の会合や初期のタモリのライブの司会も林美雄が全てやっていた。低迷した日本映画を救うきっかけを作った人でもあり、菅原文太、渡哲也、宍戸錠、原田芳雄、桃井かおりなど映画スターたちを招いて手作りイベントを行ったりもしていた。私が友人の教えられ、わくわくとしながら出会っていった文化の殆どは林美雄によって教えられたものだったのだ。
 
大学に入って、私はまた別の友人に出会う。今もときどき芝居などを見に行く仲だ。彼女にもまた歳の離れた兄がいた。彼女も兄に面白い映画や芝居、音楽などを教えられ、それらの文化にどっぷりと浸かっていくのだが、その兄こそが林美雄のパックインミュージックに深く関わり、この本にも幾度となく登場する人であった。そう言えばこの間会った時にそのようなことを言っていたなあ・・・と読みながら思い出した。
 
私自身は林美雄の放送はほとんど聞いたことが無い。「ナチチャコパック」は聞いたけれど、その後の3時から始まる前期の放送にはとても起きていられなかったし、1時始まりの後期の番組も、彼の担当曜日は贔屓のパーソナリティがいたため、「セイ!ヤング」を聞いていたからだ。ただ、おそらくザッピングの最中にちょっと聞いたことはあると思う。林美雄の語り口自体はあまり面白みがあるものではなく、深く聞かないとその良さは理解できないものだったようだ。だから私はちょっと聞いただけで笑える他の局に流れたのだと今では思う。それは林美雄の弱点でもあった。
 
先ごろなくなった永六輔もまた、埋もれている文化を掘り起こす見巧者として有名であったが、その「先見の明」を支えていたのは、実は彼の妻であった、と後に書かれているのを読んだことがある。林美雄の見巧者ぶりも、実はその背後に前妻や、彼を支えるリスナー、ファンの集団がいた。彼は光を照らす月のようなものだと自分を評していたという。林美雄は、後に自ら「パックインミュージック」を退き、ディレクターの道を進もうとする。その背景には、そういう事情があった。
 
林美雄がなくなったニュースを見た時に、胸を突かれる思いがあった。この本を読むことで、若かった時代をある意味で総括できたような思いがする。実際には聞くことのなかったひとつのラジオ番組に、若かった時期、私は確かに支えられていたのだと改めて思った。
 
 

2017/3/5