「日本人」という病

「日本人」という病

2021年7月24日

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「日本人」という病 これからを生きるために

河合隼雄 静山社文庫

 

「100分de名著」で河合隼雄特集を組んでいたので、ちょっと古い本を読んでみた。1999年の本である。震災の話がでてくるが、それは阪神大震災のことなのね。
 
「100分de名著」で、河合隼雄は日本人のあり方を仏教を通して分析したと説明していた。この本でも、仏教については折々触れられている。そして、日本人独特の生き方というものについて多くを語っている。多くを語っているのだが、結局結論は出ていないのね。まあ、出しようもないのだけれど。
 
日本人には、以心伝心というか、何もいわないでも気持ちが通じ合う、みんな底の方で通じ合っているという感じ方がある。西洋人は、私は私、あなたはあなたで別々だけれど、もし協力できるのなら、こういう点は協力しましょうと、独立しながら話し合いで決めて協力するようなところがある。日本人は、ひどい震災があっても暴動も略奪もない。ところが、救助犬がスイスから来てくれたとしても、狂犬病の検査がひ必要だから、一週間、検疫しましょうなんて言い出して、緊急性の高い対応ができなかったりする。これは同じ心のあり方から来ている、と河合隼雄はいう。
 
みんなが繋がりすぎていると、勝手に決められない。他の人はどう考えるか、前例はどうなのか、を確かめないとあとから何を言われるかわからない。避難所の所長にいきなり任命された学校長は、たとえば100人いるところに28個物資が来たら、お年寄りや子どもに配ったほうが良いのか、喧嘩の元だから返したほうが良いのか、判断しなければならないのだが、この判断が非常に難しい。前例も記録もなく、自分の判断で決めることが日本人はものすごく下手である。河合隼雄はこんなふうにいう。
 
申し上げたいことは、これは一長一短だということです。どちらがいいということではないのです。日本のよさがあったから暴動も略奪も起こらなかった。しかし、決断が迫られるときには、バカなことをいっぱいやっている。
 皆さんの心の問題で、このたいへんなマイナスをプラスに生かそうとすれば、そういうふうな日本的なつながりを維持しながら、ここぞというときに決断できる自分があり得るのだろうかということを、よく考えてほしいのです。
 私は、常にそういう気持ちでいさえいれば、できると思っています。簡単にはいきませんが、心に留めているだけでも、ずいぶんと違うと思います。
 この際、決断しようと思うときには、とにかくやる。しかし、いつもいつもそういう人間じゃなくて、やはり心のつながりで生きているというのも非常にいい味があるので、これから更に近代化していったとしても、こういう人間関係というのはある程度維持していっていいのではないかと思うのです。
          
              (引用は「日本人」という病 河合隼雄 より)
 
このところ、判断するとか選ぶとか決めるとかいう事柄について、何度も考えざるを得ない立場に立たされることが多い。日本人は決めないのね。「私はどうでもいいから、あなたのいいようにしてくれれば。」と言うことがまるで美徳のように思われている。でも、困る。本当はどうしたいのか、何を望んでいるのか、はっきり教えてくれないと、勝手に選んで判断して、結局望みどおりでなかったと他者に我慢を強いることになるのではこちらが困る。みんなが良ければ私はどうなってもいい、なんて美しい犠牲精神じゃなくて、単なる思考の放棄だとしか思えない。だが、決めない。ヒントすらくれない。しょうがないから、勝手に決めて、あれでよかったのかといつまでも思い悩むことになる。日本人、なんとかしろよ、と思う。
 
例えばあれだ、例のアメリカンフットボールの危険タックルなんかも、監督に指示されたら、自分はやらない、という判断を個人として下すのが、非常に難しくなるわけだ。上が何を望んでいるか、以心伝心でわかるし、周囲と自分はつながっていて、そこで別の行動をすることは裏切りとなるからであって。個人が確立していたら、あんな問題はきっと起きなかっただろうな、と思う。あの学生が反省の記者会見をした時に、あれだけ称賛されたのも、非常に日本的な事象だったと私は思う。
 
もちろん、いいところもあるよ。わかり合うって大事だし、黙っていても、思っていることが通じ合えれば素敵だよね。でも、そんなの恋愛時代の錯覚みたいなもんだ。言葉で「私はそうは思わない」「あなたがそう考えることは認めるが、私はそう考えることはない」を言うのは、日本人にはものすごく困難なんだよなあ。
 
河合隼雄は、結局の所、日本人が近代化されて、これからどんなふうに個人主義を受け入れていくかは余談を許さない、どうなるかわからない、という言い方しかしない。まあ、そうだよなあ、と思いながら、私は判断地獄の中でただただ佇むしかない。
 
いやはや、この本は、本当はそんなことについてだけ書かれたものじゃなかったのだけれど。今の私には、そこが大きくヒットしてしまったのだなあ。
 
 

2018/8/8