ぼくがいま、死について思うこと

ぼくがいま、死について思うこと

2021年7月24日

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「ぼくがいま、死について思うこと」 椎名誠 新潮社

シーナが週刊文春の連載を降りることを知って、不安になった。もしかして、なんか悪い病気なんじゃないか、と、とっさに思ってしまったのだ。その直後にこの本の題名を知って、ああやっぱり、と思ってしまった。大誤解だったんだけどね。椎名さん、どうやら健康でお元気でいらっしゃいますわ。

でも、歳は歳だからね。シーナの周りの人も、だんだんに死んでいく。孫の風太くんに「じいじいも死ぬの?」と聞かれて、いや、じいじいは死なないよ、と嘘をついてしまったらしい。そんなこんなで年に一回人間ドックに行ってちゃんと健康管理もしているんですと。やれやれ。

自分の周りで出会った死や、世界中の旅先で見た人々と死の付き合い方などが綴られている。そして、どんなふうに死にたいかも。

私は、小学校時代と高校時代に同級生を亡くしているが、それは大きな意味を持たなかった。私が死とはじめて向き合ったのは、たぶん、中学生のころ、母が大きな病気をした時だ。母は入院したきりなかなか病状が好転せず、このまま死んじゃうんだろうなあ、と私は思った。今思い返しても、あれは、哀しみとか絶望ではなく、静かな諦めの心境であった。

母は、無事に退院した。けれど、その後、治療法との兼ね合いで精神的に追い詰められた時期がある。病院に診察を受けに行ったきり、帰宅するはずの時間になっても帰って来なかったことがあった。病院は昼過ぎに出ているはずなのに、夕方になり、夜になっても母は帰らなかった。ああ、母は自分で死んじゃうのかなあ、とその時私は思った。そのときは、怖かった。家と病院の地続きの何処かの場所に母がいて、苦しみながらさまよっているのが見えるような気がした。見えるようなのに、どこにいるのかわからない。捕まえられない。手を伸ばして助けに行けば、今なら助けられるのに、それがどこだかわからない。まだ間に合うはずなのに、じっと待つ以外に何もできない。いや、もう、間に合わないのかもしれない。それは震えが止まらないほど怖い時間だった。

母は電車のホームで発見されて夜遅くに戻り、そのまま3日ほど寝込んだ。でも、その後、病気はちゃんと治った。そして、健康な生活を送り、四人の孫のおばあちゃんとして今も健在である。あの日のことは夢だったみたいに。

母が病気で死んでしまうかもしれないと思ったときは、諦めが先にたっていた。だのに、どこかで母が自ら死んでしまうのではないかと思ったときは、ものすごく怖かった。そのことが、私のトラウマになっている。私は、家族が予定の時間を過ぎて帰ってこないと、今でも心のなかで少し震えてしまう。どこにいて、どうしているのか。私が助けられるかもしれないのに、その場にいられないのだとしたら、どうしたらいいのだろうか。そんな恐ろしい妄想が広がる。

だが、それも、年月とともに随分とましにはなった。けれど、未だに心の何処かに巣食っている。あれが、私の死への恐怖なのだと思う。

・・・と、自分語りをしてしまったのだけれど。こんなふうに、死について考えるきっかけになる本ではあった。

2013/5/26