バテレンの世紀

バテレンの世紀

2021年7月24日

179

「バテレンの世紀」渡辺京二 新潮社

「みんな彗星を見ていた」にもちょっと書いたのだけれど、私はクリスチャンホームに生まれ育ったのに、家族で唯一クリスチャンにならなかった者である。いわば転びキリシタンみたいな存在であって、だからこそ遠藤周作とか、芥川の「奉教人の死」とか今西祐行の「島原の絵師」とかに必要以上に絡め取られる部分がある。

ここ数年で世界史を学んだことが、私にとっては割に大きな前進であったと感じているのだが、それを踏まえた上で、もう一度日本とキリスト教の歴史を学んでみるというのは意味深いものだったと思う。この厚い本は、内容も濃く、興味深いが、読み進めるのはなかなかハードで、二週間くらい、うなりながらゆっくりしか読めなかった。が、得るものは大きかった。

ザビエルが来てから、鎖国に至るまでの道筋は、歴史ではある程度学んでいたし、前述したように、何冊かの小説などでも読んでイメージはあった。が、この本は、それらとはまた全く違う別の視点を与えてくれた。渡辺京二さんはクリスチャンではないので、宗教に対して極めて公平な視点に立てる。そしてまた、歴史家としての視点は極めて冷静である。当時の日本の状況を、バテレン側から見るために、参考資料が時の支配者に対しておもねったり怯えたりする必要がない。日本の歴史に残る資料は、どうしても文字に残されるという点で、時々の支配者への批判が難しい。というか、批判的な歴史的文書はそもそも残されない。その点、バテレンのローマへの報告書などはなんの忖度もないし、率直な感想が書ける。信長は聡明でグローバルな視点を持った優れた支配者と捉えられたが、秀吉は、バテレンたちには「気品がない」と会った途端に看破され、あんな品のない人物が天下を取れるわけがない、と即座に切り捨てられている。事実は違ったんだけどね。

バテレンが、遠く異国にキリストの素晴らしい教えを伝えに行く高潔な人物の集まりだったかと言うと、全然そんなことはなく、人間臭く、支配欲が強く、そして、人間が人間であるのはキリスト教徒だからであり、人間ですらない異国の蛮族を人間たらしめてやるという極めて思い上がった姿勢を持っていたことがよくわかる。みんな時代の軛からは逃れ得ないのだから、それを悪人扱いするのが正しいとは言えないけれどね。スペインとポルトガルの勢力争いや、ローマの思惑、それぞれの司教の政争など、生臭い話がもつれもつれて日本への布教に流れ着く。

当時の日本の文化は決して西欧に劣ることはなく、バテレンたちは都の美しさ、壮麗な建物、人々の文化水準に感心している。ただし、キリスト教徒じゃないと人間じゃないから、そこんとこだけは譲らないけどね。これで、この国がキリスト教徒の国でありさえすれば、ここで一生を過ごしたい、なんて言ってるバテレンも大勢いたみたいだし。

天正遣欧少年使節も、西欧の凄さ、素晴らしさに感動させたいがために、都を見たこともない田舎の子を選んで、良いところだけを見せるように作為したと言うから笑っちゃう。

島原の乱は、宗教一揆なのか、それとも圧政に反抗した農民一揆なのか、という論争もあるが、その発端は、どうもオランダらしいというのも興味深い。オランダ船が幕府の要請に答えて、島原の乱で原城に砲弾を撃ち込んだのだが、それがヨーロッパではキリスト教徒を迫害したと強く非難されたという。たとえ新教であったとしてもキリスト教に変わりはなく、同じキリスト教徒を迫害するとは何事だ、との非難に対し、オランダ側が、いや、あれば宗教一揆じゃなくて農民一揆だったのだよ、と反論した資料が残っているのだそうだ。実際には、宗教一揆が起こるその背後には圧政があるものだろうし、そう簡単に割り切ることは出来ないだろうが。

厚い本で読むのに苦労したが、私には発見の多い本であった。人が殺されたことへの怒りや当時の人々へのセンチメンタルな気持ちが溢れた「みんな彗星を見ていた」より、この本のほうが私にはしっくり来るものがあった。といっても、比較するような二冊ではないのだけれどね。

2018/3/13