一汁一菜でよいという提案

一汁一菜でよいという提案

2021年7月24日

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「一汁一菜でよいという提案」土井善晴 グラフィック社

土井先生のファンである。最初は、「着信御礼!ケータイ大喜利」の読み手として、であった。飄飄とした語り口の中にあるユーモア、それも時にややブラックなものも含めて、非常に味があるのである。それから、「プレバト!」の盛り付けの先生としても、ファンになった。盛り付けに対する評価、提案が、鋭く、かつ温かみがあり、最後には笑わずにはおられないような表現で行われる。奢らず、真摯で、ユーモアを忘れない。人としての理想ではないか。

・・と、本来の彼の仕事である料理ではない場面ばかりでファンであったのだが、この本を読んで、さらに感心した。食を通して、生きるということをきちんと語っている。これは彼の人生観であり、哲学を語った本でもある。

人間の「生活」とは生きるための活動ですから、そこには外でも仕事も含まれます。家の中の務めは「暮らし」のことです。昔は、外の仕事も家の仕事もあまり区別なく、同じように向き合い、つながっていたように思いますが、今では外の仕事のほうが重要視されるようになって、暮らしが疎かになっている。でも、幸せは家の中、暮らしの中にあるものと思います。(中略)
 毎日庭を掃いていると、履いている人にしかわからないことがたくさんあることを知るでしょう。たった一つの石ころとでも友だちになれるのです。元から底にあったものか、ある時ほかから紛れ込んだものかを知っているのです。
 知らない植物が芽を出していることもあります。春になれば、庭木の芽も膨らむ。緑が日々鮮やかになり、季節の移ろいを細やかに感じるのです。雑草も伸びるし、そこにお気に入りが見つかるかもしれません。

北関東に越して、一戸建てで暮らすようになった。小さな庭もあって、こまめに摘まなければ、雑草はどんどん生えてくる。面倒なことだ、と思いもするが、毎日少しずつ草を取り、落ち葉を取り除き、花の苗を植えて水をやっていると、命の蠢きに心打たれるものがある。毎日、昨日と違う風景が見える。毎日、草は伸び、花はほころび、あるいは枯れ、虫がうごめいている。日とは自然の中で行きている、と当たり前のことがしみじみと分かってくる。

地球環境のような世界の大問題をいくら心配したところで、それを解決する能力は一人の人間にはありません。一人では何もできないと諦めて、目先の楽しみに来を紛らわすことで、誤魔化してしまいます。一人の人間とはそういう生き物なのでしょう。しかし、大きな問題に対して、私たちができることは何かと言うと「良き食事をする」ことです。聖者・マザー・テレサは、「世界平和のために何ができますか」という質問に、「まず、家に帰って家族を愛しなさい」と答えられたそうです。どうぞ、自ら命を大切にして下さい。

「国境なき医師団を見に行く」にもこのマザーテレサの言葉は引用されていた。この言葉には大いなる真実がある、と感じる。社会を、世界を、大きな物を変える力を私たちはたたえ、尊敬する、あるいはそれこそが意義あることだと考えがちだが、本当は、身の回りの人、あるいは自分自身の足元を見つめ、大事にし、愛を注ぎ、大切にすることこそが大事なのだと思う。いや、そういうことの積み重ねこそが大いなるものを変えていくのであって、一見、大きく素晴らしく変わったように見える社会や正解や制度、組織といったものも、結局は地道なものが変わっていなければ、すぐに崩壊する、ダメになっていくものなのだと思う。

私たちが生きるということを大切にし、尊び、少しでも幸せであろうと前を向いていくのであれば、食べるということはその基本にある。当たり前のそのことを、土井先生は、静かに、謙虚に、穏やかに語っている。その言葉は、読むものに、美味しい味噌汁のようにじんわりと染み込んでいく。

 (引用は「一汁一菜でよいという提案」土井善晴 より)

2018/5/28