大津波と原発(その2)

大津波と原発(その2)

2021年7月24日

さて、本の内容に関して。

3・11以降、原発に問題が起きているのに、何も手が打たれていなかった時点で、我が家は恐怖に震えていた。もしかしたら、誰も、どうしたら良いか分からないのではないか、原発を制御する方法を、そもそもこの国は持っていないのではないか、と思えてならなかった。

中沢新一は、こう言っている。

ぜんぜんちがうレベルの現象に対して一所懸命に、応急処置を施そうとしているけれども、根源的問題にはちっとも触れていない。つまり原子力発電のそもそもの存在意義とか、それを生み出した根源の思想であるとか、それを取り囲んでいなければいけない安全システムだとか、こういう問題については、ほとんど無思想のまま進んできちゃっている印象を受けます。
テレビに登場してくる原子力科学者たちを見ていると、「この人たちはひょっとしたら、原発のことをよくわかってないんじゃないのか」と思うくらい、見識がない。

テレビをいくら見ていても、納得のいく原理的な説明をする人はひとりもいない、と私にも、絶望的に思えた。原発に反する原理的な議論は、この国には全く存在しないまま、今まで来てしまっていることが、あからさまに分かってしまった。怖い、怖いと思いながら何日もが過ぎ、人間って怖いと思うことにも慣れるんだ、と夫婦でしみじみ話し合ったものだ。

ところで、内田樹が、自分の個人的な経験としてここで語っていることは、私の記憶と鮮明に結びつくものだった。社会科の教科書に、「日本の電力は水力発電が主体です」と書いてあったという話だ。

ああ日本に生まれて本当によかったと思っていたんだよ。だっていいじゃない。山から流れている水でクルクルと発電機を回すだけで電気ができて、もうまったく環境に負荷がないって。山が急で雨の多い国って、なんて素晴らしいんだろうと、幸せな気分だったのね。

私も、まさに内田氏と同じように幸せで誇らしい気持ちだった事を覚えている。しかし、いつの間にか、発電は火力にシフトしていた。教科書は、「ダムに砂が貯まると使えなくなる」という未来予測については何も考えないで書かれていたのだ。

しばらくしたら、こんどは「火力もやっぱりだめなんだ」。(中略)「なんで?」って訊くと、「CO2が出るからだ」って。笑うしかないよね。「えっ、化石燃料を燃やすと、CO2が出ること知らなかったの?」ってね(笑)。(中略)火力にシフトするときは、水力発電がいかにハイコストで、無駄の多い発電方法かということがうるさく言われた。原子力にシフトするときは、火力発電がいかにハイコストで、ハイリスクな発電方法かということがうるさく言われた。
だから、次に何が来ても、太陽光でも地熱でもバイオマスでも、ぜったいそれは「完全無欠のエネルギー源だ」っていう鳴り物入りで喧伝されるとぼくは思うよ。

そのシステムを運用し続けると、長期的な展望においては実はコストがかかる(それは思いがけないものではない!)という点を計上するエンジニアと、もしかしたら、案外、うまくいっちゃうかもしれない、というエンジニアがいたら、取締役会は、後者を採用する、というのがこの国のあり方だ。内田樹は、それについて、こう言っている。

テクノロジーの未来予測については、人間は必ず安全性を過大評価し、コストを最小評価する。人間というのは「そういうもの」なんだよ。いつも言っているようにさ、それって属人的な資質の問題じゃないんだよ。構造的に必ずそうなるの。だからさ、新しいテクノロジーの導入に際しては、「人間というのは、つねに安全性を過大評価し、コストを過小評価する生き物である」という人間学的事実を勘定に入れて制度設計すべきなんだよ。

そもそもが、原発においては、推進派も、反対派も、ともにイデオロギーであって、互いに、「絶対安全だ」「非常に危険で、すぐにも壊れるものだ」と言い合ってきた。自分の言い分が100%正しく、相手が100%間違っている、という対立しかなかった。だから、安全だという側は、万が一事故が起きたとしたら・・という想定で準備をすることを怠った。もし、そういう準備をすれば、「ほらみろ、絶対大丈夫とは言えないじゃないか」と突っ込まれるからだ。なんの備えもしていないことを、安全性の証明にするという、恐ろしい方法論が取られていた。いわゆる「安全神話」である。

私が、広瀬隆の「危険な話」について書いたときに受けたある種の余波は、この安全神話に基づいたものだったと思う。危険だというのは、科学的に無知な人間であり、世間を扇動するものである、という言質に出会って、私は恐怖を感じた。それは、私の意見が否定されたことへの恐怖というよりは、相手が、自分の正しさを100%信じており、私が100%間違っている、という確信に満ちていることへの恐怖だった。

私は、原発は安全である、と言ってきた相手の言葉が、もし本当であるのなら、どんなに嬉しいだろうと思っていた。自分の言葉が100%正しいとも思ってはいなかった。何週間か経って、この事故が検証されるとき、私の言葉を思い出して欲しい、とその人は言っていた。私も、私の言葉を思い出して欲しい、と同じように思った。そして、私はその時、ふと思ったのだ。ほらみろ、ときっと私は思うだろうと。私は、私の正しさを証明するために、恐ろしい事故が起きていて欲しい、と、ほんの一瞬であれ、どこかで思ったのだ。そのことこそが、実は、一番恐ろしいことだった、と振り返って思う。

この本で、同じことが書いてあって、私は、ぞっとしたのだ。

「狼が来るぞ」って言う少年は最初は村の安全を願ってそう叫んでいるんだけど、誰も信じてくれないでいると、こうなったら狼が来てみんなを喰い殺してくれれば自分が正しかったということをみんなもわかってくれるだろう・・・という風に、無意識的に最悪の事態の到来を願うようになっちゃうんだよ。

原発反対派が、どこかで、恐ろしい事故が起きて、電力会社や推進派が青くなるような日がくればいいのに、と思ったり、仮想敵国の危険性を説く軍事派が、他国が攻めて来ないと自説の正しさが証明できないと思ったりする。それは、100%自説が正しいという立場を保持しようとするゆえに起きる過ちである。人間は、そういう論理さえ、持つことができる。安全より、己の正しさを優先させようとさえ、できるのだ!

昨夜、ETV特集で、国立民族学博物館の名誉教授であった梅棹忠夫に関する番組を見た。その記憶だけで書くが、梅棹忠夫は、「人間の知的探究心は、業(ごう)であり、人類はその業によって破滅へと向かうだろう」と予見していたという。もちろん、彼は、原発には反対していた。科学の発展は、人間を暗黒へ導く、と彼は考えていたのだ。電力会社の人間が、何重にも張り巡らされた安全策について説明したとき、彼は、「けれど、人間と言う生き物は、思いがけないことをするものですからね」と言ったという。

人間に100パーセントなどというものはない、と私は思う。私は間違う。私は失敗する。けれど、あなたも間違うだろうし、失敗もするだろう、と同時に思う。だから、「あなたの考えは間違っている」という人を、私は、はねのけずにいよう、と思ってきた。その代わり、私があなたに異論を示すとき、あなたにも聞いて欲しい、と。それが、大人としての人間のあり方だと考えてきた。

時として、自分の意見への反論を、自分自身の人格否定や攻撃と勘違いするひとがいる。あるいは、反論することが、相手に対する失礼であると考える人がいる。けれど、私はそうは思わない。反論することは、相手が、反論に耳を傾ける見識の広さを持つことへの信頼の証である。反論してくれることは、その論者が、私の見識を信頼してくれたということである、と私は考えてきた。そのつもりだった。

けれど、100パーセント同士の対立には、そんな信頼は存在しない。互いに相手を完全否定しあうだけの関係しかない。もしかしたら、万が一にも、という発想も、そこには、ない。原発推進派は、絶対に安全であるとしか言わなかった。そして、反対派は、廃炉しろ、止めろ、とはいっても、今、事故が起きた場合の対処方法を用意せよ、とは言えなかったのだ。

中沢氏によれば、フランスは、ノルマンディの海岸に原発を建てるとき、周辺の住民にヨウ素を配ったそうだ。原発を中心に、10キロ圏、20キロ圏というふうに量を調節しながら。日本では、そんな対応は絶対にありえない、と私はそれを読んで思った。絶対安全か、全く危険そのものであるか、そのどちらかの立場しか、日本においてはありえなかったことを私は改めて思った。

いまや、人間にとって、謙虚であること、自分と違う意見へ耳を傾けることは、単なる道徳や美徳ではなく、安全に生き残るための重大なスキルなのかもしれない、と私は思う。絶対に100パーセント正しいものなどない。人は、しばしば間違えるし、機械は、時として、壊れる。それを考えることのできない論理は、きっと破綻するだろう。

原発事故は、そういうことだったのだ、と私は思った。

引用は「大津波と原発」内田樹☓中沢新一☓平川克美 朝日新聞出版 より

2011/6/2