春情蛸の足

春情蛸の足

2021年7月24日

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「春情蛸の足」 田辺聖子 講談社文庫

『「うまいもん屋」からの大坂論』の次にこれを読んだのは、いい流れだった。大阪のおいしいものにまつわる、男と女の物語を集めた本。どこれもこれも、なかなかに現実的で前向きな女と、なんとなく、ぐじぐじとしてしまう、心優しい男の関係になってしまうのは、真実を反映しているからなのか?

それにしても田辺聖子さんは、食べ物の描写が素晴らしい。読んでいて、すっかりお腹が空き、登場した食べ物を、食べたくて食べたくて仕方がなくなる。

 大根が薄いべっこう色に煮えて行儀よく重なっている。じゃが芋は、だしに煮含められて琥珀色である。だしはなみなみと、ごぼ天を洗う。厚揚げやこんにゃくのほかに、嬉しいことにはロールキャベルがあるらしい。それから、別に仕切りがあって、豆腐が浮きつ没みつしている。
薄揚げをくるりと裏返して包んだ丸いものは餅のようである。干瓢で口を結えられた袋は、ママのいうところでは、
「きくらげ、にんじん、椎茸、銀杏、それに糸ごんにゃくなんていうのがはいってます。福袋、いうてますけど」
タコやコロは串に刺されて、静かにだしの波を浴び、機嫌よく浸っている。つまりこの店では、おでん鍋を見渡して、
(うーむ)
とじっくり考える幸福がある。

 お好み焼きは多少の下品さがなくてはいけない。
豚の脂がじんわり沁みわたったいかがわしさ。
その濃厚を葱の味でまぎらわせ、紅生姜で刺激して、ミックスされたところにうさんくささがある。。水で溶いて火を通した小麦粉は、人の舌を陶酔に誘う、いいがたい魔力を持っている。米も不思議な魔力を持つ穀物であるが、小麦粉もそうなのである。
しかもお好み焼きの小麦粉は、その存在をわざとふくらませて、隠し味になっている。
ソースがちょっと辛めなのもいい。ウスターソースが半分ぐらい割り入れられているにちがいない。
わんぐりと食べると、瞬時に口の中でとろけそうな旨さ、あとへ、香ばしさだけのこる。
(いけるなあ・・・)
吉沢は水を一ぱい飲んで、また、ふたくちめのお好み焼きをテコで食べる。ほんとにおいしいお好み焼きは、ビールなんかで舌を麻痺させたくない、水を飲んで食べるのがいちばんいいのだ。
ふたくちめも、はじめに劣らずうまい。お好み焼きの具えるべき「いかがわしさ」の要素を残らず具えている。ソースのいかがわしさ、焦げる匂いのうさんくささ、男が肩身せまく壁に向いて食べるうしろめたさ、それにもかかわらず食べずにいられない、下隆志向の魔力を具えているのだ。それでいて、下品中の上品、というのがあらまほしい。

(引用は「春情蛸の足」 田辺聖子 より)

この本を読み終えると、思い切り、食べたくなる食べ物が、いくつもある。こっくり炊きあげたおあげさんの乗ったうどんや、関西風に割下を使わないすきやき、おでんに、お好み焼き、てっちり。

大阪には、本当に、うまいもんが多い。

2012/4/14