最終講義 生き延びるための六講

最終講義 生き延びるための六講

2021年7月24日

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「最終講義 生き延びるための六講」内田樹 技術評論社

一月二十四日の日記に書いた内田先生の最終講義が収録されています。読み返してみると、おお、なかなかいい講義ではないか。私も割にちゃんと聞いてたんだなあ、日記と同じだ、って、そりゃ当たり前なんですが。

私の聞いた講義以外にも五つ、京大やら大谷大学やら守口市教職員組合やらあちこちで行った講演が収録されています。題目は以下のとおり。

日本の人文科学に明日はあるか(あるといいけど)
日本はこれからどうなるのか?ー右肩下がり社会の明日
ミッションスクールのミッション
教育に等価交換はいらない
日本人はなぜユダヤ人に関心をもつのか

内田先生のいうことのすべてにウンウンと頷くわけではありません。けれど、この人の論理の立て方が、私は好きです。好きと言うか、面白いのです。彼の言葉には、伝えようという強い意思を感じるから。

難しい学術的な概念や仮説を、わかりやすい日常的な譬え話に落としこんで説明することが確かに僕は得意です。この方面では間違いなく才能があると思います。「これって要するにあれのことだよね」という連想によって、似ても似つかぬものの間に思いがけないパターンの類似性を見出すのは僕の数少ない特技です。でも、それは学術的な能力としては全く評価されない。

いや、内田先生は評価されないことを悔しがっているんじゃありません。ただ、学問をする人たちが、学会内の、ごく一部の学問の世界に向かってしか発信しないようなあり方に疑問を呈しているのです。

「核の抑止力という心理ゲーム」という発想にも、目からウロコでした。

核は置いてないんだけど、あるように見せかけておくほうがずっといい。それなら、コストもリスクもゼロで、抑止力効果だけが期待できる。

これが本当かどうかは知らないんですけどね。ただ、アメリカが、あれだけ沖縄は動かさない、と突っぱねているところを見ると、やっぱり沖縄には核が置いてあるんだな、と周りの国が思うだろう、という心理作戦は、有りそうな気がしますね。・・なんて風に、公開されている情報から合理的に思考して、例えば中国内でどんなことが懸念されているか考えて書いたのが「街場の中国論」だそうです。

そしたら、しばらくして政府の公安筋方が会いにこられた。「いや、面白い本でした。ご高見を拝聴したい」と。でも、その内に、どこからこんな情報を仕入れたのですか、と聞いてくるんですよ。「え、ニュースソースは毎日新聞です」(笑)。

教育に関して。

たまに『プレジデントファミリー』とか『日経キッズ』みたいな雑誌からの取材されるのですが、記者に「うちの雑誌、いかがですか?」とか聴かれると「こんな雑誌はすぐに廃刊にしなさい」と言ってるんです(笑)。あの種の雑誌の根本にあるのは、「子どもを使ったビジネス」をどう成功させるか、という考え方ですよね。どうやってピンポイントで効果的に無駄なく子どもに投資を行い、それを効果的に回収するか。

笑いました。そうなんだよなー。マニュアルに従って進めば、こんなに儲かる、みたいなあの感じに、ずっと違和感がありました。

「内田さんが学生を教えるときの教育目標はいったい何ですか?」とよく聞かれます。僕の答えは簡単です。「彼らが幸福な人生を送ること」
そういうと、みんな驚いた顔をする。でも、教育の目的にそれ以外の何があるんですか?「幸福な人生を送る」。そこでの「幸福」とは実に計算しがたいものです。幸福を数値的に表現することは不可能です。

これには全く同感です。みんなが驚いた顔をする理由がわからない。大人たちは、子供たちの幸福以外の、一体何を望むと言うんでしょう。

僕は学校教育に市場原理を持ち込むことにずっと反対してきました。けれども、それは自分の中に、何か理想的な学校像や教育像があるから言っているのではありません。市場原理なんか持ち込まれたら、学校という場が全然「わくわくどきどき」しなくなるから、そういうのはやめてくれとお願いしているんです。(中略)ただ、どうやったら「わくわくどきどき」するかについては実にさまざまな方法がある。個人差もある。(中略)どうやったら人間はわくわくどきどきするのか。高等教育機関に籍を置くものの責務はその問いを突き詰めることに尽くされると僕は思います。

引用はすべて「最終講義」内田樹 技術評論社 より

2011/9/21