未踏の野を過ぎて

未踏の野を過ぎて

2021年7月24日

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「未踏の野を過ぎて」渡辺京三 弦書房

「逝きし世の面影」が、手強いながらも面白かったので、この人の著書を何冊か手に取ったのだけど、やはり手強いものばかりであった。その中では、やや読み易そうなものを選んで読んでみた。

もう私はすっかりおばさんで、おばさんになるといろいろなことがわかってきたように思えてならないのだが、それはただ単に老人に近づいて、守りに入っただけなのかもしれない。だが、そんな私に、この人の言葉はつくづくと身にしみる。

 老いが生理的に苦しみであり不自由であるのはいうまでもない。だが、社会から解放されて、ほんとうに自分になれるのが老いの功徳なのだ。評判を求める必要もなく、ひとに好かれねばならぬ理由もない。友人は若いころ以上に大切にしたいと思うが、かといってなければなくていい。友情への幻想がさめた分、かえって友人を尊重できる。(中略)
威張る必要もない。他人と競う必要もない。ただ自分が自分でありさえすればよく、その妨げとなるものは振り捨てればよい。自分が自分であるとは、何が自分にとってほんとうによろこびなのか、見極めがつくということだ。かくて、生きる方針はシンプルになる。格好つける要はなく、ただ自分を正直にさらせばよいのだから。

 私はいま分と言った。そのことに封建的な身分制度を肯定するものだなどと、間違ってもイチャモンをつけてもらうまい。自分の分際を知るのは身分制度であろうがなかろうが、わが人生を歩み通す上での第一歩なのだ。自分に何らかの才能が備わっていなくとも、美しく生まれついておらずとも、社会という構築物の上層でときめく才覚がなくても、自分は欠けるところのない人格なのだし、森羅万象とも他者とも創造的な生ける交わりを実現する上での何の支障もないと自得すること、それを分を知ると言う。

(引用は「未踏の野を過ぎて」渡辺京三 より)

自己実現せねばならない、何かに秀でなければならないと躍起になっている若いひとを見る度に、難儀なことだなあ、と思ってしまう。我が子も含めてなのだが、何かに突出して優れ、ひとに認められたいという強い欲求は、裏返せば自分で自分を認めることができない弱さの現れじゃないかと思えてならないのだ。

もう何かに秀でて、ひとにすごいと称賛されようという欲望の実現可能性がないことを十分すぎるほど知ってしまったおばちゃんだからこそそう思ってしまうのかもしれないが、本当は、最も難しいのは、多くの人に認められることよりも、自分で自分に満足することではないのかと言いたくなってしまう。

そんな気持ちをピタリと言い当てるような文章に出会うと、おお、そうだよなあ、と思いつつ、あなたも老人、私もそこへ向かっています、と同時に苦笑もしてしまう私ではある。

2013/2/18