正欲

正欲

117 朝井リョウ 新潮文庫

LGBTの権利が過去よりは認められつつある現在、正しい性とか、あるべき性なんてものはハナからないと私たちは認識しつつある。だが、まだ、そういう人達が冷たい目で見られていた学生時代から私は「私はオカマ」とNHK政見放送で言い続けた、あらゆる選挙に立候補したがる亡き東郷健が好きだったし、当時、白い目で見られがちだった美輪明宏のファンだった。テレビに出られなかった時代のおすぎとピーコをラジオで一生懸命聞いていた。

私は彼らの理解者だったわけではない。むしろ彼らと同質の者であるという気持ちがどこかにあった。自分が多数派の異性愛者であることはわかっていたけれど「正直であろうとすると世の中から浮いてしまう自分」をいつも感じていた。それでも自分であり続けたいと願う人間として彼らとの共通項がある、と、どこかで感じていたのだと思う。けれど、彼らが世の中で受けている逆風に比べたら、私の感じている違和感など、微々たるものでしかないことも知っていた。「私はあなたたちの味方です」なんてしたり顔で言おうものなら、「何を言ってるんだか」と鼻で笑われる程度のことでしかない、ともわかっていた。私の感じる世の中との違和感は、もしかしたら数年おきの転校生であり続けたことや、在籍中の大学内でごくわずかしかいない女学生の一人であるということに起因していたのかもしれないし、私自身の持つキャラクターに何らかの因子があったのかもしれない。あるいは単なる思春期の過敏な神経がなせる業だっただけかもしれない。だとしても、私は私の独自性や特異性を抱えて生きていた。それを誰かに否定されたら、きっと腹が立っただろうとも思っている。

性は難しい。正しい性の在り方なんて誰も教えてくれないし、そもそもそんな定義はない。理性や願望を簡単に突き動かしてしまったり、人を思いきり傷つけたり、虐待に至る事すら時としてあるのが性というものだ。だとしても、私たちは共に生きる者たちとして、互いを尊重し合い、できる限り傷つけあわないで性を全うしたいと願う。性的な感覚は人によって違うだろうし、当時の私は、よくラジオの深夜放送などで、性的衝動を持て余しながらそれを笑いに昇華させるトークを聞いては、不思議な感動を覚えたりもしていた。こんな得体のしれない、コントロールが難しいものを抱えながら、それでも人は何とか折り合いをつけて生きていく、と。

そんな若い日のことを、この小説を読みながら、思い返していた。もう結構な年齢になって、性に左右されることなどほぼない日常を送っている私である。と書くことすらちょっとはばかられるというか、皆さん、どうなんでしょうねえ、なんて不安になるのが我ながらおかしい。この作品の中では、正しくないらしい性の在り方を抱える人たちが、それでも明日も生きていこうとする姿が描かれている。それでもいいじゃん、と思いながら読んでいる私であるが、小児性愛や性的虐待などには決して寛容ではいられないのもまた当然ではある。人は、人を害せずに自分を実現していけるのなら、そうありたいし、そうあるよう努力すべきだと思うから。どこまでを許容し、どこまでを譲り、どこまでをあきらめるのか。それはもう、互いに相談し、話し合い、尊重し合いながら、嘘のない折り合いをつけていくしかない。そして、あきらめずに話し合えるかどうか、分かり合おうとできるかどうか、それこそが人と人とのコミュニケーションであり、愛である、と思うばかりだ。

自分だけが正しい、常識がすべてである、と思っている人は、この小説を読むといい。そして、自分が何を感じたかを一度はっきり言語化してみるといい。そこから新しい何かが広がるかもしれない。私自身も含めて、そう思う作品であった。